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2009年9月

「学級づくり」の波紋

   いつも不思議に思うことがある。

 給食の時間のことである。給食室へ給食を取りに行く。もちろん、教師と給食当番である。

 決められたコースを並んで取りに来ることになる。

 ここまではいい。ところが、その並び方で、ほとんどの先頭が教師なのである。

 今まで初任者指導で、3校の学校へ行っているのだが、一人の先生を除いて、後は全部先生が先頭で子供達を連れて、給食室へ来られていた。

 6年生の1人の先生だけは、給食当番の子供達の後ろについて来られていた。

 私は、教師は、どうして給食当番の後ろについてこないのだろうかと不思議に思っていたのである。

 もちろん私はいつもそうしていた。

 後ろへいると、給食当番がきちんと並んでいるかよく分かる。2列にきちんと並んで整然と給食室へ行ける。

 4月の当初は、何回かきちんと並ぶ練習をさせる。並び方がまずいとやり直しをさせる。そういうことを繰り返して定着していくのである。

 教師が先頭にいると、後ろがどうなっているか分からない。だから、ほとんどの給食当番がばらばらで、いい加減である。

 まだ、利点がある。後ろへいると、給食を運んでいてこぼれた場合などにすぐ気づき、ペーパー当番に連絡することができる。とっさの場合もすぐ対応することができる。

 でも、ほんとうに大切なことは、子供達が、自分たちで給食当番を並べ、自分たちで「出発します」と合図をして、でかけることである。教師は、黙って後に付いていけばいい。

 1年生でも、そうだ。そのように練習することである。

 当番活動の中で「自分たちで行う」という気持ちを育てるのである。

 教師が、「さあ、並びなさい」「まだ、並んでいない人は何をしているの?」……毎日声かけて、並んでいない子どもを叱りつける。

 そして、「さあ、行くよ」と声かけて、出発する。

 後ろはぐちゃぐちゃで、列もばらばらで、喋りながらついて行っている。

 あまりにもこういうクラスが多いのである。

 ★

 教師が先頭につこうが、後ろにつこうがたいしたことではない。

 そのように思われるなら、もうそこで話は終わりである。

 私は、このような小さいことにこだわる。クラスの活動を子供達の自主活動にしていこうとする試みが、この後ろに教師がつくということにも貫徹されていなければいけないはずである。

 イチローも言ったじゃないですか。

 「小さいことの積み重ねが、大記録へつながる」と……。

 ★

 土作先生の「学級づくりが大切だ」という考えは、さまざまなところで波紋を呼んでいるようである。

 しかし、「授業づくり」は声高に主張されるが、学級づくりは、まだそんなに重要視されていない。

 それは、学校の時間のほとんどが、授業で構成されているから、……というのがほとんどの考えである。

 授業さえおもしろく、楽しく構成されていれば、あとのことは(学級づくりなど)必要に駆られて付け足し程度で間に合うはずだと考えられてきたはずである。

 私もそのように思ってきた。80年代の頃までは、そのように考え、法則化運動で明らかになる授業づくりをせっせと学んできていたのである。

 しかし、考えてみてほしい。

 授業をおもしろく、楽しくできるという力量は、そんなにすぐ身に付くことではない。

 初任者などは絶望的なことではないか。

 それから学級崩壊が大きな社会問題となり、その事例を追求する過程のなかで、授業づくりだけではダメだと思うようになったのである。

 子供達が大きく変貌し、クラスの一部に確実に「生徒」しない子供達が存在するようになって、もはや授業づくりだけをターゲットにするのではダメだと確信するようになった。

 それでも、授業づくりだけ(学級づくりをやらないということではない)で充分乗り切っていけるスーパー教師達は、いるはずだ。

 私は、そんな教師を目指さなかったし、目指してもなれなかったと思う。

 「普通の教師」が、目の前の子供達にどのような働きかけをすれば、クラスはうまく動いてくれるのか。

 それが私のテーマだったし、その視点を忘れないで追求していこうと思い続けてきた。

 今まで出し続けてきた本を読んでもらえば、存分に私の思いは伝わるのだと思う。

 ★

 さて、「学級づくり」についてである。

 「困難な現場を生き抜く教師の仕事術」「学級経営力を高める3・7・30の法則」(学事出版)「新卒教師時代を生き抜く心得術60」(明治図書)の3冊は、セットで「学級づくり」について展開している。

 ただ、仕事術が絶版になっているのが残念だ。何とかしたいという思いがあるが、学事は今のところ渋っている。(問い合わせが何件もある。)

 「学級づくり」は、5つの提案をしている。

  1. 学級の仕組みづくりのコツ~3・7・30の法則~
  2. 学級を集団として高めるコツ
  3. 個別対応を意図的に行うコツ
  4. 交流活動を組織するコツ~コミュニケーション力をつける~
  5. 秩序ある教室づくりのコツ

 1は、大きな広がりを持っている。また、現在では、「縦糸を張ること」として「3・7・30の法則」を位置づけている。

 2は、目標達成法として多くの人たちが実践されている。しかし、もっともっと集団として高める手立ては打っていかなくてはならない。さらに、追求していく必要がある。

 3は、「横糸を張ること」である。これから多くの実践が積み重ねられなければいけない。

 4は、法則化運動が生み出した会社活動の実践である。今、クラスはこのようなイベント活動、コミュニケーション活動を展開しなくてはもたなくなっている。

 5は、いま最もおろそかにされている活動である。ゴミが溢れる教室、教室環境にほとんど無頓着なこと。こういうクラスから文化の薫り高い教室が生み出されるはずはないであろう。

 この5つは、普通の教師が、その気になればいつでも展開できる「学級づくり」である。

 しかし、今の子供達の現状にこの5つの目標で通じるのかどうか、そこが心配である。

 これからの「学級づくり」に多くの人たちの叡智が必要である。

   

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学級づくりが、最も大切な課題になってきた

  奈良の土作彰先生のブログに次のような記事が出ている。

 土作先生とは、授業づくりネットワークの中心メンバーの一人である。

 

教育界の迷信「授業づくりができたら学級づくりはできる」

2009-09-27 18:05:14 | Weblog
「授業づくりができたら学級づくりはできる」あちこちに氾濫している言葉である。これは迷信である。「授業づくり」とは何か?常識的に考えて「最低45分の授業をどう組み立てるか」ということである。「学級づくり」とは何か。「教育活動全体を通してどう学級集団を創り上げるか」ということである。この両者は=で結べるか?否である。ここを見誤るから、授業さえやっていれば学級は何とかなると思う若手教師が増える。
私はつくずく思う。「学級づくりができていれば『授業』などどうにでもなる」と。
 
 今まで、「土作先生とは、『授業づくり』を優先する先生」とイメージしていたが、全然違っていた。
 いやいや、思い切って「学級づくりができていれば『授業』などどうにでもなる」と言い切っておられる。
 ★
 今まで私も、このようなことを言ってきた。
  私が言ってきたのは、次のようなことだ。
 ①学級づくりが、とても大切な課題になっている。学級づくりは、学級の土台作りで、その土台の上に、授業づくりや行事などがのってくる。もちろん、同時進行で進めていくことだが、順番は、学級づくりが最初で、授業づくりが後になる。
 ②「学級経営は授業で勝負」と言われ続けてきたが、それは今では成り立たなくなっている。
 ③学級づくりと授業づくりは、それぞれ課題や目標が違う。それぞれの作り方も違う。
 以上のような視点から、今まで出版してきた本は、学級づくりに焦点を絞って提案している。
  今、大きな課題になっている学級崩壊を克服していく視点として考えていったものである。
 ★
 北海道の堀裕嗣先生も、同じような提案をされている。
「現場教師が講師を務める教育研修会に参加すると、『学級経営は授業で勝負』という言葉をよく聞く。私はこうした研修会によく参加するので、この言葉を既に百回以上聞いているように思う。この言葉をキーワードとして学級経営を語る教師には、小学校の教師が多い。しかし、中学校教師たる私は、いつもこの言葉を聞く度に違和感を覚えてきた」
「学級のシステムづくりが一般に、担任から提示したルールを子ども達に定着させるものであるのに対し、授業のシステムは一つ一つ子ども達に経験させ、それらの活動の意義を一つ一つ束ねて伝えていくことによって、時間をかけて理解させていく必要がある。学級システムが生活のリズムをつくり、学校生活を機能させることに第一義があるのに対して、授業システムは子ども達一人一人の思考力を鍛え、学習に対する前向きな姿勢をつくっていくことに第一義があるからだ。従って、学級のシステムづくりは演繹的に指導してもよいが、授業のシステムづくりは帰納的に理解させていく必要がある」
                 「3・7・30・90の法則」 「授業研究21」4月号)
 私も同様な考えである。
  しかし、このように言い切ってきたのは、今まで少数派であったと思う。
  堀先生と私ぐらいが、今まで言ってきたのだと思う。
  今回、土作先生も、このようにはっきりと主張されている。
「学級づくりができていれば『授業』などどうにでもなる」というところでは意見は分かれるだろうが、……。(笑)
 ★
 授業さえやっていれば学級はどうにでもなるという若手が増えることを土作先生は危惧されている。
  実際に、学級づくりが、普通の多くの先生の真剣な課題にはなっていないことは現実である。
  私がよく言う「その日暮らし学級経営」を多くの教師達が行っている。
  そして、ベテラン教師も、クラスを荒らし、学級崩壊になっている。
  改めて、私は、「学級づくりが、最も大切な課題になってきた」と訴えたいと思っている。
 
 
 
 

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凌いでいくということ

  忙しくて、今までなかなか会えなかった平塚のSさんと久しぶりに会う。

 年若き友人だ。

 3時間ぐらい、さまざまな話をしたのだが、ほんとうに楽しかった。

 海外青年協力隊の経験があり、いずれ日本での教師経験を生かして、また途上国の子供達のために自分の身を献げていこうという夢を聞いた。

 私が今まで出していた何冊もの本にびっしり線が入っていて、疑問に思ったこと、分からないことなどを10項目ぐらい質問された。

 ほとんど本を読まない若い先生達の中で、まさに異質な青年である。

 何ともうれしいことではないか。

 ★

 Sさんの友人の話である。

「私の友人が、うつ病になっていて、メールがきました。『子供が好きで教師になったのに、その子供によって教師を辞めなくてはならなくなっています』と書かれていました」

 その友人は、二度目の再発で、教師を辞めることになるだろうと…。

「私は、妻と言い交わしました。お互いにおかしなことになったと判断したら、

 早めに療休をとるような手続きをしようと……」

 Sさんは、そのように語っていた。

 鬱病になる教師がすごい数で膨れあがっている。

 精神的な病で倒れる教師達の数は、普通のサラリーマンの三倍の数であるというのが、新聞報道でなされている。

 私がメールで受け取ったり、友人と話したりする内容でも、確実にそのような話が混じってくる。

 原因は、はっきりしている。

 何度でも書いておくのだが、大変な子供たちと、大変な親たちと、忙しさと、職場の人間関係である。この4つの何かが、あるいはこの4つの全てが重なって起こっている。

 

 私は、37年間の教師生活で、精神的な病になるということはなかったが、これは運が良かっただけである。

 いろいろな話を聞いていると、偶然だったのだなと思ってしまう。

 もちろん、大変な子供にも悩まされてきたし、大変な親にも出会ったこともある。

 職場では、大変な人とさまざまな葛藤を繰り返したこともあったし、校長からはずされて窓際に追いやられたこともあった。

 その渦中にいたときは、大変だったことを,今でも思い出される。

 しかし、思い返してみると、その期間だけであった。

 思い出は、「6:3:1」だそうだ。

 6が楽しいこと、3は中立的なこと、1は嫌なこと。このような比率で、忘れないで思い出となっているということらしい。

 だから、ほんとうは、その時大変なことだったことも、今では忘れていることだってあるのだ。

 1つだけ、自分に身に付いていたことは、「大変な時を凌いでいく」方法だったのではないかと、今ならば言えると思う。

 「凌いでいくこと」。人生のなかで、何度か、あるはずである。

 辛いことや大変な事態が、ずっと続くことなんかあるはずはない。

 絶対にない。

 でも、そんなとき、「凌ぐのだ」。

 その先に、きっと希望が見えてくる。  

 

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若い世代に伝えたい法則化運動の教訓

 「今日は、私も授業をやりましょうか?」

 と、その日、3時間の授業をした。1年生のクラスでのこと。

 初任者指導教員として、時には示範授業をして、見本を示すことになっている。

 私はしょっちゅう行う。

 ほとんどがぶっつけ本番の授業である。

 その日も、ぶっつけ本番。

 朝、どこを授業すればいいかを聞き、それで始める。

 その日は、体育、算数、国語の授業。

 体育は、鉄棒運動とボール運動。算数は、発展教材としての「とけい」の授業。国語は、「じどうしゃくらべ」の1時間目。

 教材研究をしていない授業である。

 そんなものが示範授業になるのか?

 充分なると、思っている。

 授業は、当然教科書に従ったものになる。

 何を1時間の本時目標にするか、どういう段取りで授業を進めるか、ノートへ書かせることは何かなどを瞬時に考える。

 頭にあるのは、空白の時間をなるべく作らないで、テンポ良く授業をすること。

 授業スタイルは、一時に一事の原則を使い、個別評定を駆使し、できるだけ多くの子供に発言と作業をさせるようにするというものである。

 ……と書いているが、何せぶっつけ本番である。その場任せになる。

 ★

 こういうぶっつけ本番の授業が、初任者にとってはすごく勉強になるのではないかと最近思っている。

 授業は、初任者の授業に限りなく近くなる。

 でも、違う。

 何が違うんだろうと、考えさせる。

 昨年の初任者(少人数学級、算数)にも、同様なパターンで授業を行った。

 初任者が、1組の授業をする。

 まったく同じ流し方で、2組で、私が授業をする。

 「どうだ?」と聞く。

 「まったく同じ流し方なのに、まったく違う授業です!」と…。

 「どこが違うと思うの?」

 「??分かりません!」

 私は分かっている。

 私は、授業を発問・指示・説明のそれぞれにおいてはっきり区別し、使い分けている。初任者は、発問なのか、指示なんか分からないような使い方をし、説明も曖昧である。

 そこの違いで、授業が違っている。

 それが分かって、初任者は、3組での授業を行ってみる。

 そんな取り組みを何度か、やってみたことがある。

 ★

 初任者のために、それぞれの教科の主任の先生達が、示範授業をしてくれる。

 これが、なかなか示範授業にならないことがある。

 特別な授業を要求しているわけではないが、授業の基本を踏み外していく授業をされたら、示範にも何にもならない。

 悪しき授業(初任者にはそれが分からない)の模範を教えていることになる。

 最低限の授業の基本とは何か。

 1,本時のねらいを明確にし、そのための授業を組み立てている。

 2,発問・指示をきちんとして、説明を明確にする。

 これだけである。私は、その善し悪しを問うていない。

 しかし、これだけのことが主任の先生たちにできないことがある。それは、何なのだろうか。

 身につけないままに、今まで過ごしてきているというわけであろう。

 今、このことは、少数の例ではない。そこがちょっと深刻だと、私は思っている。

 ★

 北海道の「ぶらっしゅ・あっぷ教師力」(手作りの教育雑誌)に、私は、連載している。

 今回の2号の特集テーマは、「教育技術の法則化運動」の教訓 である。

 私も、その原稿の依頼を受けている。

 特集解説には、次のように書いてある。

「教育技術の法則化運動」を知らない世代が現場の多くを占めるようになってきました。それに伴い、「法則化運動」を知っていれば起こらなかったトラブルが頻発しています。「法則化運動」を外側から眺めてきた我々にとっても、この状況には忸怩たる思いを抱きます。「法則化運動」が歴史と化している現在、私たちは彼らに何を伝えなければならないのでしょうか。中堅・ベテラン教師が提案します」

 時機を得たテーマである。

 今更「法則化運動でもないだろう!」と思っておられるかもしれない。

 しかし、現実には、法則化運動が提起した貴重な教訓が、法則化運動を知らない世代にまったく伝わらないままに過ぎていこうとしている。

 これは深刻なことである。

 なぜ深刻かというと、授業の基本的なことがほとんど伝わらないままに、テキトーなことをみんなし始めていると思えてならないことである。

 ★

 私が、ぶっつけ本番の授業をし、しかも初任者の授業よりも良い授業(多分)をしているのは、法則化運動が提起した教訓をきちんと身につけてきたからである。

 そのことは、絶対に若い世代に伝えなければいけない。

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保護者クレーム対応6か条、子供トラブル対応5か条

  授業づくりネットワークのメールマガジンで、若手の先生のお悩み相談をしている。

 お悩みの相談原稿をもらい、それに私の回答を書いていく。

 授業づくりネットワークの会員ではないが、雑誌原稿、講座、お悩み相談などずいぶん授業づくりネットワークには、貢献していることになる。(笑)

 友人たちも、数多くいる。

 このネットワークが好きなのは、違う考え、意見に積極的に学んでいこうという組織論理が鮮明であること。

 私などの考えは、いまネットワークで進めておられる方向とは、ずいぶん違う。

 それでも、私を呼んでもらえるということは、意気に感じることである。

 意見が違うということ、考えが違うということ。

 こんなことはたいしたことではない。違って当たり前である。

 ★

 若い頃から、違う職種の人たちと付き合いたいと心がけてきた。

 教師だけで群れる、そういう習慣をやめたいと思ってきた。

 今でも、付き合いが長いのは、保護者だったお父さん、家が近くだったお父さん、事務職のSさん、用務員のYさんなどである。

 旅行仲間の4人も、みんな職種が違った。

 そういう人たちから学んだことは計り知れない。

 そして、私の棺桶は、それぞれ違う職種の人に持ってもらいたいと願っていた。(笑)

 でも、考えてみれば、付き合いが長い人たちは、ほとんど私より年配である。

 ★

 脱線してしまった。元へ戻そう。

 相談原稿についてである。

 もう15回目を迎える。

 これらの相談では、自分なりにまとめてきたものがとても役立つ。

 今回は、保護者からのクレームへの対応6か条、子供のトラブル解決の鉄則5か条である。

 このことは知っておくだけでも、ずいぶん役立つ。

 <保護者からのクレーム対応6か条>

 1 初期対応が最も大切だと心得よ

 2 保護者からの苦情には、電話で絶対対応しないこと。面と向かって

   話し合え

 3 とりあえずあやまること

 4 話をよく聞くこと

 5 苦情に対して、心から同情を示すこと

 6 感謝の気持ちを表すこと

 このことについては、明治図書の心得術60に書いた。それを参照してほしい。

 技術的であるという批判はある。「誠意をもって対応すれば、相手は分かってくれる。こんな技術的な対応には反対だ」という意見である。

 こんな経験的なことをいつまでも言っているから、失敗する。さらに保護者を逆上させることがある。

 このクレーム対応は、企業クレームへの対応から学んだものを取り入れている。

 <子供のトラブル解決の鉄則5か条>

 1 トラブルの関係者を別々に呼ぶこと

 2 最初に伝えよ

  「最初にうそをつくと、次から次にうそをつかなくてはならず、大変です。やったことはやったと正直に言った方が絶対に良いです。先生はあなたが正直に言ってくれることを信じています」

 3 理由ではなく、状況に注目

  「どうしてそんなことをしたの?」という理由を聞き出すことではない。いつ、どこで、誰が、誰と、どのような理由でトラブルになったのかを正確に聞き出す。

 4 同情を示すこと

  きちんと話を聞き、「あなたがそこで怒ったことは分かります」と理解と同情を示すこと。一方的に叱らない。

 5、けんか両成敗で決着

  問題が明らかになったところで、双方を呼び決着。

 

 

 

 

 

 

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今回のこの政変劇を注視していく

 今、テレビや新聞をよく見る。できるだけ多くの情報を目にし、自分なりの判断をするためである。

 民主党が政権を取って、連日さまざまなニュースが乱れ飛んでいる。

 私は、このブログでは政治のことについて書くことはほとんどなかった。

 政治嫌いという面もある。教育の世界に政治を介入させてくることは良くないという考えもある。

 しかし、今回の政権交代は、そんなことを言っている時ではないと判断している。

 それは、今回のこの政変劇は、明治維新に匹敵するほどのできごとではないか、と思っているからである。

 日本人は、内発によって自分たちの世界(組織)を変えていくことは、苦手である。

 外発(外からの刺激や政策などによって)で変わることがほとんど。

 ところが、今回の変わり方は、日本国民が自分たちの意志で政権交代を選んだのである。

 かつて、歴史的に見れば、明治維新だけではないだろうか。(あれは、武士達の政権交代だったのだが…)

 ★

 ついつい新聞記事は、教育の面に惹きつけられる。

 たとえば、次のような読売新聞の記事がある。

 

会見で新施策知る、文科省幹部「あ然」…三役会議始動

読売新聞 09月19日14時53分

 民主党の掲げる「政治主導」の行政運営が、さっそく動き出した。

 19日未明、文部科学省の中川正春、鈴木寛両副大臣と2人の政務官が就任記者会見に臨み、川端文科相とつくる「政務三役会議」の運営方法や新たな施策を公表した。副大臣による定例会見の実施、「中央教育審議会」をはじめとする各審議会の委員の見直し……。官僚抜きで決めた方針が次々に発表されると、その場にいた省幹部が、あっけに取られる姿も見られた。

  18日深夜、東京・霞が関の文科省大臣室。川端文科相はこの日初登庁を終えた鈴木、中川両副大臣や、後藤斎、高井美穂の両政務官と記念撮影に臨んだ。見守っていた同省幹部らは撮影終了後、カメラマンとともに静かに部屋を後にした。

 官僚のいない大臣室で行われたのは、民主党政権が「政務三役会議」と名付けた新設の会議。各省の大臣、副大臣、政務官が参加する省内の最高意思決定機関という位置づけで、今後、週に1回開かれる。当然、官僚は出席できない。

 川端文科相らは、約1時間に及んだ初の三役会議で、〈1〉高校無償化など政権公約に掲げた15点の早期実現〈2〉補正予算の見直し〈3〉2004年4月以降の天下りの報告――など5項目についての報告を、省幹部に求めることを確認。別室から坂田東一次官と山中伸一官房長を呼び出し、5項目を書いた指示書を手渡してこう告げた。「必要な予算を作るために身を削ってがんばってほしい。国民と約束したことにお金をまわさなければならないから」

 坂田次官は、補正予算の執行見直しについて連休中の22日の報告を求められ、「はい」と答えるのが精いっぱいだった。

 その後開かれた副大臣、政務官の就任会見で、鈴木、中川両副大臣らは、国会の委員会に所属する与党議員と同省幹部らが参加する「政策会議」の新設や、副大臣による週2回の会見の実施などを次々に発表。文科相の諮問機関・中央教育審議会など審議会については、いずれ委員の人選を含め見直すこともありうるとした。

 会見場の片隅にいた同省の幹部は、政策決定で蚊帳の外に置かれた形。その1人は会見終了後、ぼうぜんとした表情で話した。

 「『政』と『官』の在り方はまるっきり変わった。今後、一体どうなるのか」

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 私は、副大臣になった鈴木寛さんが、文部大臣になってくれることを願っていた。残念であったが、副大臣入閣は当然である。

 「教育をめぐる虚構と真実」(宮台真司、神保哲生 春秋社)で、宮台や神保と対話している鈴木さんを知って、これはすごいと思ったものである。

 今現在の議員の中では、もっとも教育に精通している一人であると、思っている。

 しかし、読売新聞の内容は、爽快である。

 初めて、「政」が、「官」を押さえて主導権を取っている。

 進めていく内容については、必ずしも賛成ではないが、大きな地殻変動が起きる予感がしている。

 そうしなければ、今現場で進んでいる市場原理主義的な変化を食い止めることはできない。

 教師を疲弊させ、ぼろぼろにさせようとしている。

 この変化に「政」がまったをかけられなければ、もう絶望的な教育状況になっていくことを覚悟しなくてはならない。

 「官」が引っ張ってきた教育改革は、もうほとんどが失敗してしまったのである。

 「ゆとり教育」の失敗が、最近の最もいい例。

 私は、この総括を徹底的にやってほしいと願っている。

 ★

 「教育と平等」(苅谷剛彦著 中公新書)がある。

 愛知県小牧市の教育長 副島先生が、推薦された本である。

 これからの教育論議は、この本を下敷きにして論議しなくてはならないと推挙されている。(小牧市のホームページの副島先生の推薦された本をほとんど読むことにしている。いつも教えられている)

 まだ、読んでいる途中だが、今までの認識を大きく変えなくてはならない指摘を読んで、戸惑っている。

 今のこの時期に読んでおくべき本であることは間違いない。

 

 

 

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1年生は、「おもしろ主義者」

  低学年の子供達は、「その場、おもしろ、理想主義者」であると書いた。

 彼らが、「おもしろ主義者」であることも、少し書いておこう。

 1年生担任の初任者を担当している。昨年度も、そうであった。

 1年生の子供達は、私が来る日(1週間に一度だけ)を待っている。というと、手前味噌的な言い方になるのだが、勘弁してほしい。

 私が、教室に「おはよう」と言って入っていくと、何人かが、早速私の机に寄ってくる。

「先生、あの怖い話、今日続きをしてくれるの?」

「私ね、今度の休みに北海道にいくの!」

……

 さまざまなことを告げに来る。

 私も、早速おもしろいことを言って笑わせる。

 彼らと1年間付き合うことで、心がけたことは、一人一人に「あだな」をつけることと、そのあだなで毎回毎回呼んであげることである。

 もちろん、嫌がる場合は即座にやめなくてはならないが、子供達は、そのあだなを通して、私におおいに親近感を感じてくる。

 とくに、おとなしい子供には、効果的である。(昔は、このあだなで、授業中も呼んでいたが、今はだめだ。授業中と休み時間の区別をしなくてはならない。)

 ★

 授業づくりネットワークの東京大会の講座で、石川先生から子供時代の小林先生のことについての話が出た。

 小学3年生のとき、担任の先生が休まれて、小林先生が1時間だけ補欠に来られて、話をしてくれたことである。

 このことを本に書いていて、この1時間が鮮明な記憶として私に残り続け、今も子供達に話をすることを得意にしているのは、この小林先生のお陰である。

 その時の担任の先生のことも、話題に出た。

「覚えているのですか?」

「いや、ぜんぜん記憶にありません」(爆笑)

 1時間の小林先生と1年間の担任の先生。

 何ということであろうか。

 ★

 これは、私が忘れっぽいというだけではない。そこに本質的な問題があるのだと思ってきた。

 精神科医の中井久夫さんの「こんなとき私はどうしてきたか」(医学書院)を読んでいる。

 そこにこんな記述がある。

「患者さんがさんざん聞き飽きたようなことは言わないことです。アルコール依存症の人なら『お酒、やめなさい』と、何百回と聞いていることを言ってみても無駄なだけですよね。どこか新鮮味というか、驚きがある必要があります。だから私はいつも、『この患者がいままで聞いてないことは何だろう』と考えます。

 精神療法って、こんなことなんですよ。いままで聞いたことがないような言葉を耳にして、その人が『なんだろう?』と考えるようにすることが精神療法なのであって、言葉の魔術で患者さんを治すわけではじゃない」

 1年間の担任の先生は、教師らしい言葉を毎回話された。まったく心に残っていない。(それは否定することではないが…)

 1時間の小林先生は、わくわくするような話をされた。それが、子供心に住み着いたということであろう。

 ★

 私が、1年生の子供達に「あだな」を通して関わろうとするのは、何か特別な教育的な試みではない。

 彼らは、そんなあだなをつけて、おもしろいことを言ってくれる大人(先生)に初めて会っているのである。

 それが、なんとも快く、心揺り動かすことである。

 給食の時間、グループごとにまわって一緒に給食を食べる。

「今日は、この班だよね」と、待っていてくれる。大喜びをしてくれるのだ。

 私も、一人一人話題に出して、おもしろいことを言う。

 言われた子供は、「もう!」とぶつマネをしたり、笑ったりする。

 また、その様子を物まねでやってあげると、周りは大爆笑をする。

 担任の先生は、早く給食を食べてくれないかなとひやひやされているのだろうけれど、しばしのおもしろ時間である。 

 

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   このコメントには、答えておかなくてはならないであろう。

 先日のブログでのことである。

 このようなコメントをいただいた。

 

 初めてコメントさせていただきます。
こんなことを質問してもよいのかと思いつつ・・・。
時間内に・・・というやり方は、TOSSの実践などでもよく拝見します。やってみるのですがうまくいきません。一度で終わればいいのですが、やり直し・間違い直しなどさせていると、とてつもなく時間がかかってしまいます。それと私が個別に点検している間に、ほかの子のを答えだけ教えてもらったり(指導の問題なのでしょうが)早く終わらせたくていい加減に取り組んだりと、煩雑になってしまいがちです。そんなわけで、やっている時はしっかりと見届け、あとで点検というようにまた戻ってしまいました。それでも、「時間内に」というのを目指したいのですが、もう少し詳しくこのやり方についてお話しいただけるとありがたいです。

投稿: シープ |

 確かにそうだろうなあと思う。

 私の場合は、次のような方法でおこなっていた。

 ①(ドリルチェックの場合)できたものから持ってくるように指示する。

 ②サインは、スリーA丸(すばらしい)、スリーA(よい)、ツーA丸(もう少し)<子供達との約束で掲示しておく>

 ③即座に見て、そのサインをつける。(言葉を添えながら)とにかくスピードが勝負である。一々間違いの指摘などしない。よほどの間違いの場合だけ、×をつける。それだけ。ずらっと子供達が並ぶ状態は作らないようにする。

 ④終わった子供には、事前に何をするかを指導しておく。

 作文も、そのようにしていた。漢字の間違いや語句の間違いなども、ほとんど指摘なんかしない。

 算数ドリルなどは、時間を決めて取り組み、答え合わせを全体で行い、「1,2班持ってきなさい」と言って、丸付けをしたページをさっと見て、ハンコを押していった。(全体を並ばせることはしない。2分程度の時間である。席についている子供は、間違いを直していたりする)

 きちんと丸をつけているのか、点数はきちんとつけているか、できばえはどのくらいかなどをチェックするのである。

 そして、私からハンコを押してもらった子供は、算数ドリルをしまう籠にしまって終わりである。(もって帰らないで、教室保管としていた)

 ただし、この方法をとる場合は条件がいるであろう。

 A、早くできた子供から教師の処へ持ってこさせるのだが、早くできることが決して良いことだという価値観を持たせてはならないことだ。これは、あくまでも時間差を利用して、その場で処理することのメリットを有効に使おうとすることであるから。

 B、一時に処理することは、一事(サインをする、ハンコを押す)に限定しておく。あれもこれも狙わない。(では、間違い直しなどはどうするのだということになるが、それは別の時に行う)だから、ずらっと並ぶことは、ほとんどない。

 C、これが一番大切なことかもしれないが、サインをする、ハンコを押す時間をきちんと授業時間に組み込んでおくことである。

 D、それでも、どうしてもつけらない場合が確かにある。その場合は、ページを開かせたまま、重ねさせて、空いた時間に即座に処理するのである。

 

 大切なことは、どうしてもやりきるんだという仕事術を身につけていくことである。

 

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思い煩ふな

 月曜日、いつものように帷子川の遊歩道を歩く。

 からりとした暑さ。空の青さ。あのカリフォルニアの空を思い出す。

 歩きながら、ふとドングリが落ちていることに気づく。

 もうそんな季節である。

 思い立って、しばしドングリを拾い、ポケットに詰め込む。

 このドングリには、子供の頃の思い出がつまっている。

 樫山と名付けた小高い遊び場所では、秋の一時期、ドングリが一斉に雨のように降るときがあった。そう、雨のように、だ。

 子供達は、その時期をしっかりと覚えていて、楽しみに待っていた。

 ★

 部屋へ帰り、気に入っている小さな絵皿にドングリを入れ、テーブルに飾る。

 ただ、それだけのことだが、妙にウキウキする。

 久しぶりに長田弘の「記憶のつくり方」(晶文社)を開く。

あとにのこるのは、或る時の、或る状景の、ある一場面だけだ。

こころにそこだけあざやかにのこっている或る一場面があって、そ

の一場面をとおして、そのときの日々の記憶が確かなものとしての

こっている。そこだけこころに明るくのこっているものだけが手が

かりというしかたでしか、過ぎさったものはのこらない。日々が流

れさるもののかなたでなく、日々にとどまるもののうえに、自分の

時間としての人生というものの秘密はさりげなく顕れると思う。

木下杢太郎の、とどまる色としての青についての詩を思いだす。

  ただ自分の本当の楽しみの為に本を読め、

  生きろ、恨むな、悲しむな。

  空(くう)のうえに空(くう)を建てるな。

  思い煩ふな。

  かの昔の青い陶の器の

  地の底に埋もれながら青い色で居るー

  楽しめ、その陶の器の

  青い「無名」、青い「沈黙」。

                       (「それが一体何になる」)

  ★

 一年の中で、過ごしやすい最高の時間をこうして楽しむ。

 三週間まえに過ごしたサン・ノゼの、あの青い空を思い出している。

 ホテルに持って行った目覚ましは、まだそのままにサン・ノゼの時間を刻んでいる。

 今頃、先生達は、子供達にどんな勉強をさせているのだろうか。

 あの広い運動場で、子供達と汗を流して遊び回っているのだろうか。

 一人一人の先生達の顔が思い出される。

 太平洋の向こうの、あの地で、人はずっと暮らし続ける。

  

 

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低学年は、その場主義者なのだから

  担当している1年生担任の初任者の先生が、漢字練習帳を開かせたまま集めていた。

 15分の練習の後に、集めたものだ。

 反省会で、先生に言った。

「先生、あの練習帳は集めないで、15分の中で早くできた子どもから持ってくるようにした方がいいですよ。

 どんどんその練習帳に記号で評定していく。子どもたちと約束しておけばいいのですよ。三十丸花丸…すばらしい 三十丸…いい 二重丸…もうすこし などと決めておけば、いい。そこで今書いたばかりの練習帳に、『これはすばらしい』などと言いながら評定していくのですから、絶対に子どものやる気を盛り上げますよ」

と助言しておいた。

 子ども一人一人と対面で、評定していくことの大切さは、低学年を担任した先生なら分かるはずのものである。

 ところが、ほとんどの先生達は、その場で、そのような評定しないで、集めて、放課後丸付けをしている。

 その場で丸付けした方が、放課後の時間を他の時間に回せるのにそうしない。

 子どもたちに返却されるのは、この次の国語の時間である。

 1年生の子どもたちは、ほとんど何を書いたか忘れてしまっている。

 対面で評定される緊迫感と比べれば、雲泥の差である。

 ★

 どうしてそうしないのだろうと、私はいつも疑問に思っていた。

 私は、1年生は4回担任した。2年生は、5回担任した。

 その過程の中で、そういう方法を会得した。

 私は、初任の1年間を除けば、放課後職員室でテスト、ドリル、スキルなどの採点をすることはなかった。

 仕事術の1つでもあったのだが、子どもたちを伸ばしていくためには最適な方法であった。

 とくに、低学年は、「その場主義者」だから、その場でホットな展開をしてあげることは必須の条件である。

 どうしてそうしないのだろうか。

 放課後、テスト採点などをしないなら、する仕事がなくなってしまうからであろうか。(笑)まさかそうではないだろう。

 考えられることは2つである。

 1つは、授業の中に、丸付けまでを想定していないこと。そういう時間がないというより、(いや、取ろうと思えば十分あるのだ)授業の中に、そういう丸付けの時間を組み込むことの発想がないのであろう。

 もう1つは、放課後職員室で、テストの丸付けや練習帳、ドリルの丸付けなどをすることが教師の仕事として深くイメージ付けられてしまっていて、ほとんどの教師はそれを追認する形で、意識的にも無意識的にも、教師としての満足を得ているからではないか。

 「いや、あんまりそんなこと考えていませんでした」と、言われそうである。

 ★

 低学年は、「その場、おもしろ、理想主義者」であると、元来主張してきた。

 その3つを満足させてあげれば、低学年のクラスが荒れるはずはない。これは、断言できる主張である。

 

 

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ひさしぶりに刺激的な本を読む

 久しぶりに刺激的な本を読んだ。

 「間違いだらけの教育論」(諏訪哲二 光文社新書)である。

 「オレ様化する子どもたち」以降、さまざまな新書を出版されてきたが、今回の本もおもしろかった。

 諏訪さんは、きちんとした足場を持っている。

 その足場から、さまざまな人たちの論を撃つ。なるほどと納得する。

 ★

 今回も、まず映画や劇「奇跡の人」で有名な「三重苦の聖人」ヘレン・ケラーから始めている。

 「見えない」「聞こえない」「しゃべれない」という三重苦のために、外部や文化を受容する手立てをほとんど奪われていたヘレン・ケラーをサリバン先生は、暴力(強制)によってこじあけていく、その試み。

 その試みを紹介しながら、諏訪さんは、告げる。

「ふつうの子どもたちが個人形成に向かうということは、まさにヘレンが外部を受け入れざるをえなかった宿命と重なる。子ども(ひと)を社会的に個に形成していく営みは、そんなに簡単な営みであるわけがない。ヘレンとは違う形だが、外部(社会)の拒否や忌避はさまざまなヴァリエーションで現在の子ども(若者)たちに広がりつつある。子ども(若者)たちのなかにヘレンのような物理的な障害ではない精神的な障害として外部(世界)が『見えない』『聞こえない』『表現できない』症候群がじわじわと広がっている」

 まさに的確な指摘である。

 ★

 こうして変貌してしまっている子どもたちを社会化していくために、どうしていくかが論議されなくてはならない。

 ここで、諏訪さんは、斎藤孝さん、陰山英男さん、内田樹さん、義家弘介さん、寺脇研さん、渡邉美樹さんに噛みついている。

 視点は、一つである。

 彼らが、学校教育(啓蒙としての教育)の意味をきちんと見据えていないことへの批判である。

 これがとても快い。

「ひとは教育によってひとになるのだと近代の思想は語ります。教育によって構成されないひとはありえません。ただ、ややこしいのは、ひとは教育される以前もひとであることです。おとなも子どもも『ひと』としての尊厳は同格です。この点が私たちの思考に混乱をもたらします。教育認識が屈折してきます。

 教育を受ける前にすでにひとはそこに『いる』という事実が、ひとは『つくられる』ことによってひとになるという、『啓蒙』としての教育の局面の軽視につながります。近代に到達し、近代的な考えが当たり前になった社会では特にそうです。実際、多くの人たちが学びに向かう子ども(ひと)がそこに「いる」ことから、教育の議論を始めています。子どもはすでに学ぶ姿勢を持っているところから話を始めます」

と。

 ★

 マスコミも、現場を知らない評論家たちも、一般の人たちも、多くの親たちも、ほとんどがこうであった。

 「啓蒙としての教育」の意味が、これほど軽視されてきた時代はないのではないか。

 そこに諏訪さんは、切り込んでいく。

 

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