はじめての信念を、そのまま信じるな
ある学校へ赴任したときに、私の大学時代の先輩、同僚と一緒になったことがある。
1つのところへ地方の大学の知り合いが一緒になったのである。
これだけでも珍しいことだが、その人達はみな学生運動の経験者で、お互いによく知り合っていた人たちであった。
こんなこともあるのである。それこそ何十年ぶりの出会いといってよかった。
その学校は、荒れていた。職員たちもバラバラであった。
よくよく見ていると、私の先輩の先生が、反校長の急先鋒で、学校をバラバラにしている大本であった。
学校での要職を避け、楽な仕事に逃げていた。
2年目に私に教務主任という仕事が回ってきて、私と、その先輩はさまざまなところで対立することになる。
その先輩は、私に対して学生時代から転向したと受け取ったのであろう。
ある日、突然「私たちは労働者でしょう?」とその先輩からなじられたことがあった。私が、労働者という立場を離れて、教務主任という立場で管理職と一緒に学校の仕事をしていることに我慢ならなかったのであろう。
その先輩は、ほとんど学生時代から変わることなく、ずっと同じような考えで過ごしてきたのであろう。
★
冒頭から昔の話を書いている。
夏の授業づくりネットワーク大会で、今回「ライフヒストリーから学ぶ学級作り」のテーマに講師として参加している。
「学級づくりに役立つ『3・7・30の法則』とその由来」である。
私が提唱した「3・7・30の法則」を対象化してもらえるのである。
北海道の石川晋先生が、私の対話相手でもある。
このテーマのために、私もまた昔のことを思い出している。
その昔のことと一緒に、ある学校での昔の先輩のことが思い出されたのである。
その先輩は、学生運動時代の昔の考えをずっと持ち続けて、今の時代も生き抜いていくことにずっと誇りを感じられていたのであろう。
「野中は、昔の考えを放り投げて、管理職になびき、権力の思うままに生きようとしている」と腹立たしく思われたのであろうか。
★
この先輩だけではない。日本全国で、管理職にならず、職員会議では、常に反対に回り、会議をいつまでも長引かせ、それでいて、学校の重職からはいつも逃げ回り、5時頃にはさっさと帰ってしまう、そういう団塊の世代は多かったに違いない。(私も若い頃には会議を長引かせていたので、えらそうに言えないのだが…)
そういう人たちが、今退職で総退陣している。
学校は静かになっていくであろう。職員会議で、余計な時間を潰すこともなくなっていく。
しかし、そう否定的なことばかりもなかったであろう。どこか憎めないところもあったのではないだろうか。(笑)
私は、何を書きたいのか。
私の先輩のことである。
先輩は、ずっと若い頃の考えを持ち続けていることを誇りに思っていたはずである。
ここを問題にするためである。
これは、誇りでもなんでもない。怠惰なことだよと言いたいためである。
考え続けることを放棄しているのである。
昔の若い頃の考えが、今の時代にそのまま通用するはずがないではないか。
★
「中学生からの哲学『超』入門」(竹田青嗣 ちくまプリマー新書)を読んでいたら、次のようなところにぶつかった。
「ふつうの人は誰でも、だいたい高校までは、自分の家族、学校、友人などから自然に受け取ったはじめの『世界像』を育て、これをまわりの人間と共有している。これが一枚目の世界像です。ところが、大学などに入ると(もちろん大学だけとはかぎらない)、言葉の力がたまってきて、本とか耳学問で、突然新しい世界像が開かれることがある。世界と人間についてのまったく新しい観念、考え方です(宗教の形をとることもある)。
これが二枚目の世界像で、これが入ってくると、なかなか強い力を発揮する。というのは、二枚目の世界像は、これまで自分が持っていた考えはみな間違ったもので、ここにこそ『ほんとうの世界』の姿がある、といった一種の世界発見の魅力をもって現れるからです。ちょうど、恋をすると、相手の美質について結晶作用が起こると同じく、世界についてのロマン的な結晶作用が起こるのです。
ほんとうは、この二枚目の世界像がさらに相対化されて三枚目の世界像を得たとき、われわれは、世界経験というものの全体像をはじめてつかむのだけれど、そのためには、この二枚目の世界像が何らかの仕方で挫折する必要があるんです」
これは、私の考えを見事に言い得ていると思った。
要するに、先輩は、二枚目の世界像で止まってしまったのだ。
別のところで、竹田は、次のようにも言っている。
「…この経験は、以後私に、人間が若いころどういう考えを『正しい考え』として持つかは、はじめてのたまたまの入り口に大きく左右されるものだ、という感じを強く与えました。つまり、はじめの『信念』をそのまま信じるな、です。一枚目の信念は、たまたま取りついたレッテルなので、必ずいちど検証し直さないといけない」
竹田は、一枚目の信念を二枚目の世界像と考えている。
私は、二枚目の世界像を三枚目の世界像に切り替えるまでに多くの時間を費やしてしまっている。
はじめの信念をそのまま信じるな、ということが分かっていたなら、もっと早くその世界像から抜け出していたのにと、……。
私は、これからその三枚目の世界像と格闘しなければいけない。
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