日常を変えられるのは、非日常の言葉だけである
初任者指導教員の仕事をするまで、ほんとうに分からないということがあった。
それは、低学年(1年から3年生まで)を受け持つ若手の先生たちが、クラスにいる数人のやんちゃたちに引っかき回されて学級崩壊になっていく事態である。
そのやんちゃの中に、発達障害のある子供がいたら、事態はかなり変わってくるのであるが、そうでもない。
やんちゃ数人にいいようにかき回されて、ギブアップ状態になることが、私には理解できなかった。
教師としての力量がない、として片付ければもはやそれまでである。
具体的にどんな力量がないから崩壊状態になっていくのか、ということが明確にならなければ、具体的な手立てがはっきりしてこないわけである。
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初任者指導の仕事をするようになって、その正体をつかまえたぞいう思いになっている。
多分、現役の頃には、つかまえきれなかっただろうと、今でも思う。
私は、今一日中一人の初任者(といっても臨任経験者であるが)の授業を見ているわけである。昨年も、そうであった。
こんなことは、37年間の教師生活ではなかったことである。
現役時代、他の先生の授業は、いくらでも見た。
しかし、それはあくまでも研究授業という形の授業であった。ほとんどがそうであった。
でも、今は、それこそまったく構えていない、そのままの授業を見ているのである。
これは貴重な経験だ。
今まで気付かなかった問題が、さまざまに見えてくる。
「ああ、そうだったのか!」「なんだ、問題はここにあったのか!」…というように分かってきたことがさまざまにある。(今までも、このブログでいくらかは書いてきたところである)
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さて、低学年の学級崩壊についてである。
私は、低学年の場合、(それは3年生までであるが)つぎの2つのことができていれば、数人のやんちゃたちにかき回されることはないと思ってきた。
それはどんなことだろう?
1つは、まず集団活動の基礎(集団行動や学習のしつけの習慣)を作ることである。
例をあげれば次のようなことである。
①勉強の始め、終わりをきちんとし、時間を守っている。
②勉強時間での空白の時間(何をやっていいか分からないという状態、給食の待ち時間に当番以外の子供をうろうろさせないことなど)を作らないようにしている。
③さまざまなところへの集団行動(体育館への移動、保健室への移動など)の時、きちんと並べて行動している。特に、「整列させること」を重視している。
④教室は、きちんと整頓され、机の中、ロッカーの中などはいつも整頓するようにしつけている。
そして、もう1つは、子供への「事実を誉めていく」働きかけである。
ここまで書けば、1つ目は、「縦糸張り」だな、2つ目は、「横糸張り」だなと考えられるであろう。
この2つを意識して、あとは授業をやっておけば、低学年は十分だと私は考えてきた。
やんちゃたちは、いつのまにか、この渦の中に巻き込まれているはずだし、事実そうなるはずである。
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若い先生達は、叱ること(あるいは怒ること)が苦手で、崩壊状態を作り上げるのではないかと思ってきた。
しかし、そうでもないなというのが、初任者指導の指導をするようになってからの感想である。
結構、叱っている。というより、小言をしょっちゅう連発している。現実的には、叱責ばかり、注意ばかりしているという状況がある。
「だって、先生。悪いことばかりするので、注意しておかなければ先に進まないのです」
ということ。
でも、やんちゃたちにとっては、その叱責は屁でもない。(ごめんなさい、品がなくて)
家庭では、もっとひどく連発して叱責させられているのだ。
こんな日常を続けている。
ここに、一つは大きな問題点があることに気づいた。
やんちゃたちは、叱責や注意ばかりされて、ますます行動をエスカレートさせていく。
学校では、叱責と注意だけだ。そんなの屁でもないのである。
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この「日常」を変えられるのは、「非日常」の言葉だけである。
この非日常の言葉とは、「事実を誉めていく」ことである。事実を認め、みんなの前で披露し、「すごい!」「えらい!」「素晴らしい!」「天才!」「高学年のようだ!」…と誉め称えていくことである。
そう言うと、やたらと誉めまくる先生がいる。
そういう事実がないのに、ほとんど見ていないのに、「誉め言葉」だけを連発するというのは、もっとも虚しい行為である。
子供達は、すぐにその空虚さに気づいていく。
事実を見なければいけない。事実をつかまえること。その事実は、かすかにしか見えないのだから。
「だって、先生。そんなことを言われても誉めるところなんて一つもないのです。悪いことばかり繰り返して、その注意だけで精一杯なんです」
と言われる。
「だって、だって」の底なし沼に落ちこんでいる。
狭い視野の中で、ただただ「やんちゃな子の悪たれ行動」だけが見えている。
やんちゃな子供のそばで、きちんと教科書を出し、ノートに丁寧に書いている目立たない子供の姿は、もはや全然視野に入っていない。
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一緒に初任者指導をしている先生から聞いた。
「野中先生、指導している先生で、叱るときにうまいなあと思ったことがありましたよ。その先生、いつもはそんなに叱ることがないのだが、叱るときには、その子供を呼んで、『なぜ、先生があなたを叱っているか、言ってみなさい』と、言わせているんだよね。感心したよ。叱られたことを子供の言葉で言わせているっていうのは、すごい力量だね」
そうなのだ。ほとんど先生が叱っていることは、自分のまずさからそうなっているのだが、その先生は、自分の感情だけで叱ろうとはしていないところがいい。(私は、感情を思い切りぶつけて怒ることの必要性もあることを承知の上で、このように言っている)
教師でいるということは、ある種の覚悟が必要だ。
その覚悟とは、演技ができる、演じられる余裕とでも言えばいいのか。
たとえば、廊下に並べるときに、わいわいおしゃべりをして並んだとき、「もう一度やり直し」のかけ声をかけるであろう。
そして、もう一度の並び直しで、静かにきちんと並んだとき、どうするだろうか。
大袈裟な演技が必要だ。
「すばらしい。さすがに3組の子供です。すぐにこのようにやり直しができるのです。私は、ますますこの3組が好きになりました!」
こういう「誉め言葉」が必要だ。
こういう「誉め言葉」を集団にも、個人にも、しばしば投げかけ続けることである。
こういう言葉を出せるということが、ほんとうは「教師の力量」なのである。
低学年で、学級崩壊をする先生には、この「誉め言葉」がない。
思いつかない。使えない。誉めるべき事実が見えない。
そういうことだ。
そんなことが、見えてきたのである。
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