健全な家庭人であれ
「明日の教室」3巻を読む。「2 授業観のとらえ方」の西川 純先生に賛同する。
学び合いを提唱されている上越教育大学の西川先生である。
西川先生は、「健全な家庭人であれ」で、「残念ながら現在の社会は教師に聖職であることを望み、スーパーマンであることを期待している」と書き出されている。
うん、うん、と頷く。
そして、最後にこのように書かれてある。
「最後に。『ごく普通の自分が、自分の家庭を犠牲にせず、最後まで勤め上げられうる授業』が、教師が形成するべき授業観である」とまとめられている。
その通りだ、と私も賛同する。
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私は、「新卒教師時代を生き抜く心得術60」(明治図書)の中で、次のように書いたことがある。
「私たちが若い頃、仕事さえ片がつけば、早く学校から離れたいという思いが強かった。教師としての仕事から離れて、<自分の時間>を持つことを求めた。
本を読むこと。友だちと会って話すこと。映画へ行くこと。音楽を聴くこと。妻と2人だけで出かけること。絵を見に行くこと。……
一人の社会人としての生活を求めることを強く求めた。
結婚すれば、夫婦として時間を大切にしなくてはならない。
子供が生まれれば、父親、母親としての時間を大切にしなくてはならない。
地域の中に住んで、その生活もあるはずである。
こうした生活を、バランスよく自分の中で組み立てていく必要がある。
考え違いをしてはだめである。
教師だからという思い上がりで、その仕事だけに専念しておけば、事足りるという昔の聖職意識は、もう時代錯誤である。
学校へ遅くまで残って仕事をしておけば、何か<いい先生>になったような感覚があるとするならば、思い上がりも甚だしい」
おそらく、西川先生と私は、同じ地平から発言している。
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授業では、飛び抜けた力を持っているある先生の本を読んでいた。
その途中で、次のようなことが書かれてあって、愕然とした。
その先生は、布団に休まれることがない。パソコンをうちながら、その場所にうつぶせになって眠られるという。そういう日常が綴られていた。
普通こんなことはやっていても本に書くことはない。
それを書かれたというのは、「私は、こんな努力をしているから、すぐれた授業技術を身につけたのだ」と言うつもり(?)だったのかもしれない。
このような努力をして、私に続けと叱咤激励のつもりで書かれたのであろうか。
寝食を忘れて、物事に突っ込んでいく志を説かれたのであろうか。
私は、寒々とした気持ちになった。
この先生は、考え違いをしていると思った。
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ここから先は、その人の思想(価値観、倫理観など)や生きる哲学が問われるのであろうか。
私はしばしばこのブログで書いてきたことがある。
人は、24時間内の課題をきちんと消化した上で、はじめて25時間目の課題が出てくるはずだ、と。
ほんとうなら25時間目などないのだ。人の生活は、24時間内で成り立っている。
その24時間の中で、人は、さまざまな苦しみを克服しながら、幸せを求めて生きているのである。
もしその24時間の中で、解決できない課題が出てきたとき、ある人は25時間目の課題を設定し、その追求をしていく。
それは、24時間目の課題を克服するためにのみ設けられるはずである。
そこには、その人の必然性が込められているはずである。
人は、24時間の中で生きることがもっとも価値ある生き方である、と私は考えてきた。
上にあげた授業上手の先生は、25時間目の課題を追究することが、もっとも価値ある生き方だと思っているようである。
まさに、私と真反対の生き方だ。
しかし、これだけははっきり言えるのだが、24時間内の課題を無視した思想が生き延びることはないという歴史的教訓である。
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