再び「健全な家庭人であれ」
「健全な家庭人であれ」というブログを書いた。
すぐさま、西川純先生からコメントをいただいた。ありがたいことだ。
(いつもコメントをいただくことに返信していません。申し訳ありません)
このブログへの反響は、大きかった。
私の親しい若き友人は、涙したと伝えてきた。
やはり、現場が忙しさに追われている状況を表している証なのであろう。
そして、遅くまで仕事をしたり、寝食を忘れて仕事に没頭するのを美徳とする風潮が確かにあるのである。
また、他の知り合いは、次のようなメールを送ってくれた。
以前、ある授業力アップのセミナーに参加したときに、
同じように感じたことがありました。セミナーには、
授業力の非常に高い先生が、遠方から講師としておいでになっていました。
事実、その話しぶりなどから、生徒からの信頼は厚いだろうと想像できました。
ところが、お子様が生まれたばかりで、まだ顔も見ていない、
週末はこうして、あちこち講師として飛びまわっているというお話に
びっくりし、たいへん違和感を覚えました。
1時間でも早く、お子さんの顔を見にいってあげてください、
奥様にねぎらいの言葉をかけてあげてください、ついそんな気持ちになりました。
そのとき感じた違和感は、野中先生の「健全な家庭人」かどうかという
ところなのだと、腑に落ちました。
私は非常勤講師として勤めるようになって6年になります。
1年目は、正規の先生に劣らないようにと肩に力が入っていましたが、
2年目くらいから、講師は、外の風を学校に入れることのできる存在だと
思うようになりました。私は私らしい先生であればいいのだと。
自分の子どものこと、家族のこと、学校以外の生活のこと、
先生以外の仕事のこと、子どもたちにも同僚の先生方にも話します。
こんな先生もいるんだ、こんな生き方もあるんだという例として、
子どもたちに何かを伝わればいいなと思っています。
最近は「ワークライフバランス」という言葉もよく使われますが、
このような言葉が使われるようになる前から、このことは常に意識していました。
私にとっての心地よいバランスは「健全な家庭人である」ことが大前提、
その先に仕事がある、というバランスなのだと再確認しました。
ずっと小さくもやもやしていたことが、野中先生のブログで解消した気分です。
ありがとうございます。
★
「私にとっての心地よいバランスは『健全な家庭人である』ことが大前提、その先に仕事がある、というバランスなのだと再確認しました」という視点は、とても大事なことである。
しかし、現場は、そのようになっていないかもしれない。
特に、困難な問題を抱えている現場は、そのようにはいかないことを承知の上で、それでも「健全な家庭人であれ」と言っておきたい。
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コメント
野中先生はじめまして。赤坂先生のブログから先生のことを知り、このブログで勉強させていただいています。さて、今回・前回の記事を拝見させていただき、お礼の言葉をお伝えしたくコメントさせていただきます。
野中先生や西川先生のようなお方から「健全な家庭人であれ」とおっしゃっていただけるととても救われる思いでいっぱいです。私は夫婦で教員をしています。もし、教師が生活の全てを犠牲にしなくては子どもたちを幸せにすることができないのであれば、私は子どもたちを幸せにできない罪な教師です。そして、私の妻はもっと罪深い教師です。私の妻は私よりもずっと力がある人です。ですが、いかに時間を多く費やすかの競争のような世界では妻は救われません。そして、妻の担任する子どもたちは救われません。
そんなことはあってはならないと思います。
私の使命は「自分の担任する子どもも、保護者も幸せにしながら、自分の家族も幸せにすることができること」を追い求めることだと考えています。まだまだその道は険しいですが、きっと実現できると思っています。
繰り返しになりますが、先生のこの記事に感謝しております。勇気が湧いてきました。
長文のコメントで申し訳ございませんでした。
投稿: 大島崇行 | 2009年7月 8日 (水) 04時22分