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再びテストの問題について

 先日、ブログに「良い勉強をして成績が上がるのではない。成績があがるから、いい勉強ができるのです」を書いた。

 それについて、長い間の親しい知り合いから、「おかしいのではないか」と指摘を受けた。

 「良い勉強をして成績が上がるのではない。成績があがるから、いい勉強ができるのです」というロジックは、当てはまることもあるが、それで全てを解釈するにはお粗末である。むしろ、この言い方は、誤解を与える恐れが多分にあるという指摘である。

 私は、自分の論を補強するために、陰山英男さんの論を引用している。

 私とまったく同じ論法ではないが、それを補強するものとして引用した。

 どこが違うかというと、2つあった。

 ①「テストというのは、子どもに教えたことがどれだけ定着したかを見るもの、と思っている教師がいますが、これは間違いです」ということ。

  この意見は極端である。テストというのは、子どもに教えたことがどれだけ定着したかを見るための機能を1つはきちんともっているはずである。

 ②抜き打ちテストについて、良くないという論は、これまた極端で、私は、「これからテストをします」ということは、よく行った。そのためには、そのテストへの準備をきちんと行ってから行った。でも、普通は、「明日、算数のわり算のテストをします」という通告をしてあげるということはいいことだと思う。

 そういう論法の違いはあったものの、そのまま引用した。

「あの陰山先生さえも、テストに対してはこのように敏感になっていたのだよ」と示すには最適だと思ったからである。

 しかし、その引用をするなら、私との論点の違いも、やはりきちんと書くべきであったと思う。それが抜けている。

 ★

 「良い勉強をして成績が上がるのではない。成績があがるから、いい勉強ができるのです」という論法は、心理学の有名な論法を応用しているのだと思う。

 「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しくなるのだ」

 「楽しいから笑うのではない、笑うから楽しくなるのだ」

 この論法は、人間の心理を見事についたものである。私もずいぶん応用したものである。

 しかし、全てではない。悲しいから泣く場合だって十分あるし、楽しいから笑う場合だってあるのである。

 むしろ、それが普通である。

 しかし、心理学の有名な論法は、人間の心理はそんな簡単なことではない、このような心理の綾もあるのだと教えてくれたのである。

 ★

 だから、私も、この心理学の論法をテストにも応用していったことは事実である。

 今まで20点、30点とかを長い間とり続けた子供に、80点、90点、100点を取らせていく試みをしていくことによって、ものの見事に大変身させていった実践を数多く持っている。

 テストの点数が、子供の自信につながっていることは明確だし、安易にテストを考えていくべきではないと、先日のブログで主張したことである。

 しかし、友人が指摘するように、この主張は誤解も生まれる。

 「それでは、テストの点数をとにかく取らせる試みをすればいいではないか。テストに出る問題を事前に何度も練習させていけばいいではないか」

と言うように。

 日常の学習をいい加減にしておいて、テストだけに敏感になる、このような試みが推奨されていいはずはないのである。

 こうなれば、もはや話にはならないのである。

 しかし、確かにこのような試みを導き出す恐れを私のブログの主張は持っていたことになる。

 ★

 このような指摘をきちんとしていただける友人を持っていることを、心底うれしく思っている。

 人は、肌合いのいい、自分への賛辞を歓迎しがちである。人間心理としては当然である。

 しかし、これはとても危険である。

 なぜなら、自分は、自分のことを本当は最も知らないからである。

 自分が、自分のことを最も知っていると誰でもが思っている。確かに、だいたいがそうである。

 だが、自分の大切なところは、気づいていないと思っていた方がいい。

 その証拠に、同僚の隣の人は、1,2ヶ月の付き合いで、簡単に私の大切なところに気づいてしまうのである。

 でも、なかなかそれは言えないし、言わない。

 事実、私も、それを隣の人には言わない。言うことによる関係のこじれを気にするからである。

 自分の大切なところを本当に知りたいと誰でもが願うはずである。しかし、人は、決してそれを教えてはくれない。

 どうするか。

 自分にきちんとはっきり指摘してくれる人を持つことである。

 つれ合いを持つということは、そういうことである。

 また、きちんと指摘してくれる友人を持つということは、何にもまして優先されることでもある。

 だから、自分への批判、自分への指摘、自分への叱責などは、自分の大切なところを知るまたとない機会と思わなければいけない。

 ★

 友人からの指摘からずいぶん離れてしまっているが、これだけは言っておかなくてはならない気持ちがしている。

 今、若い人たちが鬱になっていくことがとても多い。(もちろん、若い人だけではないが)

 これは、職場での同僚からの批判、親たちからの批判、子供達との関係のこじれなどに端を発している。

 確かに自分への批判は、最も気になることであろうが、いつでも、誰でも起こることである。

 その批判は、自分が何者であるかを知る、貴重な宝庫であることを知らなさすぎる。

 それは、何であるか。自分のどこの問題であるか。自分の生き方の問題であるか、仕事の仕方の問題であるか、人への関わり方の問題であるかなど、きちんと考えてみることである。

 これをじっくりと考えたとき、自分は一段階上のレベルに足を進めたことになる。

 自分という存在と真正面から向き合ったのだ。

 批判に強くなろう。乗り越えられるようになろう。そして、そのように指摘してくれる人を一人でも多く持とう。

 そのように考えている。

 

 

 

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コメント

野中先生、先日はお世話になりました。
自分ののことを思って指摘してくださる方からの批判は謙虚に受け止めなければならないと思います。生徒にもよく話します。
しかし、昨今、教師に対する理不尽な要求や根拠のない批判が増えていることも事実です。
この二種類の批判を見分ける感覚をもつことも大切ですね。また、若手を理不尽な批判から守る職場環境も大切ですね。
学校は非常に厳しい状態であるとこの二ヶ月で実感しています。

投稿: J.SASE | 2009年6月 5日 (金) 18時44分

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