授業の「評価」と「省察」
初任者の授業を一日中見る。さまざまな感想を持つ。一々が、気にかかる。
しかし、その一々を全て指摘しても、絶対に初任者に届くことはないであろう。かえって、頷きながら、引いていってしまうであろう。
それでは、何を、どのように伝えればいいのであろうか。
そこではたと立ち止まってしまう。
先日は、7分間だけ国語の音読の介入をした。今日は、体育で、20分間遊具の使い方で介入をした。
これらの介入が、初任者にとって有効であるかどうか、それが問題である。
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郷里へ帰る飛行機の中で、「教師花伝書」(佐藤学著 小学館)を読んだ。
刺激的な本であった。
私が、今まで壁に感じ、どうしても突破できなかったことに対して佐藤は、同じようにぶつかり、何とかそれを突破しようとしている。
壁とは、次のようなことだ。
学校の重点研究で、研究授業をする。
授業後の研究会で、その先生の授業について検討する。
この時、どうしても「良い授業」という観点から「評価」していく批評になっていく。
その授業の良いところはどこで、まずいところはどこであるという指摘をしていく。ほとんどの批評が、そのように傾いていく。
今までの授業研究は、ほとんどがそのようになっていたし、それで事足りてきたところがあった。
だから、必然的に授業上手な人の指摘が重きがあり、授業下手の人は、黙っておく以外にない。
こんな研究会を続けていけば、いつまでも一部の先生達が声高に発言する会を続けることになり、決して学校全体が高まっていく気運を盛り上げることはできない、と思い続けてきた。
だから、そのような研究会を続けていくと、授業下手の人は、いつまでも授業下手であり、そこから抜け出る方策は、ほとんどないままに研究会は推移してきたのである。
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佐藤学は、「そういう私も授業を『評価』する見方から脱却し、『省察』する見方を獲得するまでには、ずいぶんと年月を費やした」と書いている。
佐藤に従えば、私が疑問に思い、壁に感じてきたことは、「授業を評価する見方」だと指摘している。
なるほど、なるほど、指摘されるとおりである。
では、佐藤の「省察」する見方とはどうすることであろう。
「若い教師の授業の欠点を指摘することは誰にも容易だが、その欠点と言われる事柄が生じた要因はもつれた糸のように複雑に絡み合っているし、『欠点を直せばよくなる』というほど授業実践は単純ではないし、教師の成長も単純ではない。ある欠点を指摘することが、その教師の長所をつぶしてしまうことにもなりかねない。
一人ひとりの若い教師が直面している壁をもつれた糸をほぐすように解読し、その教師が授業を改善し自ら成長させるうえで最も有効な道筋を発見しなければならない。この経験が、授業を良し悪しで見るのではなく、事実として子細に見る見方、つまり自然観察において蟻の観察を行うように、教室の出来事を子細に観察し省察する見方へと私を導いてくれた」
また、別のところで、佐藤は、次のようにも指摘している。
「私が校内研修において、『教師の教え方』を観察と批評の中心とするのではなく、『子供の学びの事実』(どこで学びが成立し、どこで学びがつまづいたのか)を観察と批評の中心に置くことを主張してきたのは、教師たちの研修を専門家らしい学びの場へと転換することを企図したからである」
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この「省察」については、私の引用は言葉足らずであろう。
もう少し考えてみたいところである。
この「省察」について、おやと思えるものを読んだ。
「授業づくりネットワーク2009in東京」講師依頼をされたきた上條春夫先生の
文言のなかに、次のような言葉があった。
「今回のテーマは『技術と省察の教師力の探求』です。授業成立には『授業成立の基礎技術』とともに『自分の実践を振り返る・変化に対応する』(省察)を行える『教師力』が必要であると考えたからです。技術だけでもダメだし、省察するだけでも不十分。二つが必要だと考えました」
これも「省察」である。
8月11日、12日である。私も、講師を引き受けることになった。
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