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2009年2月

来年度へ向けての布石を打っている

 「縦糸・横糸」理論が広がっている。うれしいことである。

 そこで、この理論が一人歩きをしていく(そうなってもいいという意見もあるが)場合があり、ここらで一応の理論付けをしておいた方がいいのではないかと、私が横藤雅人先生に提案して、急いでいくらかまとめてみた。(もちろん、まだまだ試案の段階である)

1、定義

 A、縦糸…教師と生徒(児童)との上下関係づくりである。

 B、横糸…教師と生徒(児童)との通じ合い、心の通い合いである。

2,内容

 A、「縦糸を張る」とは、次のようなことを言う。

  ①学校でのしつけをきちんと身につけさせる。

  ②返事、あいさつ、敬語などの言葉づかいをきちんとさせる。

  ③学級内ルールをきちんと作る。

 ☆「学校でのしつけ」とは、次のような内容を言う。

・教師に提出物を提出する際には、「お願いします」と言って、教師側に提出物を下部が向くように出す。

・廊下に並ぶ際には、しゃべらない。

・プリントを手渡すときには、「どうぞ」「ありがとう」で。

など(まだ多くある)

 B、「横糸を張る」とは、次のようなことを言う。

 ①教師と生徒がフラットな関係性を築くこと。(問題解決の場面では、教師も共に考え、共に笑うこと。子供に感謝、感動し、それを伝える。時には子供に謝る。)

 ②子供に追究をゆだねたら、その後はできるだけ指導は控えて、同じ学究の徒として事象や資料、題材に並んで向かい合うこと。その結果、本心から「君に負けたなあ」と伝えること。

 ③教師が、生徒と共に話し合うこと。(子供が困っていること、問題などに積極的に関わり、話し合い、解決する)

 ④教師が、生徒と遊ぶこと。

 ⑤教師が、生徒の良い点を伝え、誉め、励ますこと。(ハガキを書いたりすることもおおいに有効である)

 ⑥教室に笑いを作り、伸びやかな雰囲気を作ること。

3,方法

 ①教室という場で、縦糸と横糸という相矛盾する2つのベクトルを、バランス良く織物のように組み合わせ、その一つ一つの絡み合いと出会いによって、一つの模様を紡ぎ出す試みである。

 ②学級の最初は、まず「縦糸を張ること」から始まる。縦糸には、色と模様は不要。横糸を受け止める幅とゆとりを内包する適度な強さが必要。縦糸が粗すぎたり、強すぎたり、密すぎたり、頑なだったりしても、横糸がうまく乗らない。

 ③しかし、横糸だけでも織物を織ることができない。横糸は、重ねようとすると、自らの重みで崩れる。

 ④しっかりとした指示(縦糸)があって、豊かな心の通い合い(横糸)があるとき、子供の思いもかけない可能性が表れてくる。

 ⑤縦糸は強いか。また、強すぎないか。横糸を乗せることに耐えられる本数と強さか。つまり、一方的な指示や方針が出されるばかりだったり、弱気な、一貫性のない指示だったり、子供の実態から見て無理な指示や方針だったりしていないか。常に評価していくことが必要である。

 ⑥横糸は、豊かか。笑い(嗤いではない)や子供の発想がきらめいているか。教師と子供がフラットな関係性を築いているか。どこかに冷たい、頑なな教師の態度が残っていないか。模様に合わせて臨機応変に紡いでいるかなど、常に評価していくことが必要である。

 ⑦学級経営においては、縦糸は出会いから数日の間に張ってしまい、後になってからその縦糸をぶらさないことが大事。縦糸の長さを意識すべき。横糸を通そうとするとき、初めての縦糸に触れる。触れても大きくぶれないことで、横糸の通し方が徐々に分かってくる。しかし、ある程度縦糸も揺れながら横糸が通って、織物が見え始める頃には、縦糸の揺れ幅も共通化し、またそれまで織った織物が縦糸を強化していく。

 縦糸を張ること、横糸を張ることが、どういうことなのかが分かってもらえると思う。

 ★

 この「縦糸・横糸」理論からすると、私が提唱した「3・7・30の法則」とは、ほとんど「縦糸を張ること」の<学級内ルールをきちんと作る>の中に含みこまれてくる。

 今回、この視点で、「3・7・30の法則」の具体的展開を改訂したところである。(今までの資料と大きく変わるところはないが、縦糸・横糸理論が少し付け加えられている。今までこの資料をもらっていない方、メールで請求してもらえば送付します。テキスト形式では、罫線が出ないことがわかったので、その分含んでもらいたい)

 項目は次のようになる。

 ①「縦糸・横糸」理論について

 ②「3・7・30の法則」の課題

 ③平成18年度  1週間の課題

 ④「3・7・30の法則」の具体的展開(1)<3>の法則(最初の3日間)

 ⑤「3・7・30の法則」の具体的展開(2)<7>の法則(最初の7日間)

 ⑥「3・7・30の法則」の具体的展開(3)<30>の法則(1ヶ月)

 ★

 なぜ、私がこれらのことを急いでいるかというと、来年度へ向けての布石である。

 来年度も、私は、初任者担当の仕事をする予定である。

 その計画段階に入っているからである。

 私が受け持つ初任者が、この「縦糸・横糸」理論と「3・7・30の法則」をどのように受け止め、どのように実践していくのか。

 そのためには、私がしっかりとした企画を持たなければならないためである。

 初任者と私との共同作業である。

 もちろん、初任者の力量が加味されるわけであるので、一概に言えることではないが、もし「縦糸・横糸」理論と「3・7・30の法則」が具体化されたとき、クラスはどのように動いていくのか、課題はどのようなことが残されるのか、…大きな試みになるはずである。

 

  

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目標達成法の効果

  週1日で訪れる1年のクラスも、訪れるのは、あと数回になった。

 昨日のこと。1時間目は、クラブ発表会であった。それが終わって、算数の時間。

 繰り上がりの計算の習熟の時間になっていた。繰り上がり36問の計算問題のカードが作成してあった。3+9と問題を出され、すぐ答えが出せたら、合格のはんこが押してもらえるカードである。

 3回分はんこが押せるようになっていた。

 もう4人の子どもたちが3回分合格していて、はんこを押す先生役をつとめていた。

 一番やんちゃな子も、真っ先に合格していて、先生役をつとめていた。(先生は、意図的にそのようにしていたのだろう)

 「すごいね。A君、一番先に合格したんだって!すごいね」

と誉めると、照れて、照れて、…廊下に飛び出していった。

 はんこを押す先生役の子供も、並んでいる子供も、嬉々として取り組んでいた。

 繰り上がりと繰り下がりの問題は、それぞれ36問ずつある。かけ算九九みたいに覚えるように取り組んだ方がいいというすすめに従って考え出された方法である。

 途中から私にバトンタッチさせてもらった。

 私は、36問の問題を全部黒板に書き出した。

「今から全員起立します。問題を棒で指しますから、すばやく答えを言います。

 言えなかったり、間違ったりしたら、正直に座ります」

と言って、一つずつ棒で指示していった。かなりの子供が残った。

「今度は、少し早くなりますよ。さあ何人残れるかな?」

と言いながら、少し早めに指示していった。これもかなり残った。すごい、すごいと誉めながら、次は、2人組で行った。

「2人組の1人が、問題を出し、一人が答えます。どちらが勝つか勝負です」と言って始めた。

 ……というようにさまざまなバリエーションを使った方式で行った。

 ①全員起立方式

 ②2人組方式

 ③1人で覚える方式

 ④先生方式(先生のところへ行って合格にしてもらう方式)

 このように、小刻みに変化をつけながら行った方がいいと教えた。

 問題は、次の繰り下がりの計算なのである。

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 この1年生のクラスは、40人の子どもたちであるが、1年間で素晴らしいクラスに育て上げられた。

 まず、申し分のないクラスに育てあがったということができる。

 9月から取り入れた「目標達成法」が効果的であった。

 私が提唱している方式である。その方式で、今まで9つの目標があがっている。

 子どもたちは、「10個上がったら、お楽しみ会をやるんだ!」と楽しみにしている。

 目標が36人以上達成できたら上にあがる約束である。

 1年生だから、確認は、終わりの会で目をつぶって36人以上「できた」と手が上がったら、上にあげるという方式である。

 簡単な取り決めだが、これだけでも十分な効果があった。

 やはり、子どもたちは目標を意識し、みんなで取り組もうという気持ちができあがってくる。

 改めて、目標達成法の効果を確かめることができた。

 

 

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その灯りは、自分で灯さなくてはならない

 親しい知り合いの先生からメールをもらった。

 関西青年塾の講師の荒井賢一先生が、「学級づくりは、覚悟と技術です」と言われたということだった。

 ずばり、うまいことを言われるものである。

 私ならなんと言うだろうかと考えてみた。

 「覚悟」という言葉に替わる言葉というのは、あるのだろうか。

 「決意」、「プロ意識」……という言葉を考えてみたが、どうもしっくりしない。

 やはり、「覚悟」というのがいい。

 学級崩壊立て直し記のA先生の「腹のくくり方」がまさにこの「覚悟」に当てはまる。

 荒井先生、すみません。この言葉をパクリます。

 そして、つぎのように言いたい。

 「学級づくりは、覚悟とビジョンと方法です」

 ★

 全ての組織のトップたちは、「覚悟とビジョンと方法」の3つを持っていなくては、もはやその組織を動かしていくことはできなくなっている。

 もちろん、担任教師もまた、学級組織のトップの位置にいる。

 「覚悟」が、いるのである。いま「学級づくり」さえも、腹くくらなければできないほどのものになっている。

 「ビジョン」とは、「学級をこうしていきたい」という抱負である。

 初任者の先生達には、とても思い描けないのかもしれない。しかし、この抱負があるからこそ、子供たちへ向かっていける。

 ところが、最も大切なのが、この「方法」である。

 だいたいが、覚悟やビジョンがあっても、空回りする。方法論を持っていないためである。

 方法は、2つ。

 1つは、組織にいる人たち(子供たち)をどのようにしてその気にさせていくかである。

 2つめは、具体的な仕組み作り、システム作りなどの手立てがきちんと打てることである。

 ★

 A先生の学級崩壊立て直し記についての感想などが多数送られてきた。まことにありがとうございます。

 返信を送れなかった方が多数おられる。全部きちんと読ませていただいた。

 記して感謝に代えたいと思う。

 さまざまな感想の中で、学級へ入られた1時間目の算数の授業は、どのような授業だったのか、という問い合わせが多数寄せられていた。

 A先生に問い合わせをした。

 「どんな授業だったのかという質問が多数寄せられています。」

 A先生は、そのことについて、手紙をくださった。

 文面そのままには、紹介できないが、箇条書きにすると次のようになる。

  1. まず、そのクラスに入るときは、そのクラスの子たちを“まず、こちらから好きになる”、そんな気持ちで始める。どんな子供でも、その言動の裏には必ず“気持ち”があるから、そこをくみ取れば、いとおしくなる。
  2. だから、このクラスに入るときも、(他のクラスもそうですが)ニコニコして入っていった。もう腹をくくっているので、逆に、どこまでこの子たちを集中させられるかと、楽しみでもあった。
  3. がんばろうとしている子を見つけて、かたっぱしから認めていって、授業に巻き込んで、子供たちをがんばらせていった。
  4. いろいろな事情を背負っている子供たちもいる。しかし、学校ぐらいは、教室ぐらいは、子供たちにとって安心していられる場にしなくてはいけない……と、楽しい場にしなくては……と崩壊クラスに限らず、毎年、どの学校でも、そう願って授業をしていた。
  5. ですから、たとえ週1回の授業でも、先生が先生として物理的にも、精神的にも、そのクラスにドンといて、子供たちを受け止めていくこと……私は授業の技術もないので、せめてそのくらいのことはさせていただこうと…、思っていた。

 A先生は、5,6年の教師生活をされて、結婚退職されている。二十代の時である。

 そして、8年前に、非常勤講師として現場に戻られている。

 しかし、A先生の教師としての「覚悟」は、並ではないということを文面から読み取れると思う。

 現場の教師達が、子供たちと真正面から向き合うことを避け、逃げ始めようとしている(?)時、A先生は、まさに独自に、このように子供と向き合おうとされていたのである。

 ★

 A先生の崩壊立て直し記を紹介してきた私に対して、「おや、野中の今までの主張点と違っているのではないか」と思われた方もいると思う。

 確かに、A先生の子供のとらえ方と私のとらえ方は、違っている点がある。

 私の場合の子供のとらえ方は、もっと悲観的である。

 日本全国の崩壊しているクラスでの中心の子供たちを、A先生が紹介しているクラスの子供たちと同じように考えることはできないとも思っている。

 私は、日本全国のさまざまな事例を耳にしながら、その凄まじさに言葉を失う。

 だが、あえてA先生の崩壊立て直し記をどうしても公開したいと思ったのは、その現実の中で、こうして子供たちに立ち向かい、その壁を越えていこうとするA先生の心意気に感動したからである。

 そして、この心意気には、きちんとした「ビジョン」と「方法」が備えられていたことを読み取ったからである。

 考え方の違いなどというものに拘ることなんか、たいしたことはない。

 私は、どうしてもこのA先生の心意気を、私のブログを見ている先生たち(私が信頼し、多くの期待を込めている先生たち)に伝えたいと思ったからである。

 ★

 ふと目に留めた、NHKのクローズアップ現代のピーター・ゲルブの言葉には、吸い寄せられるような余韻があった。

 観客が高齢化し、動員数が年々減少する中で、古典芸術を復興させたいと新たな仕組み作りに挑戦しているのが、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の総裁に就任したピーター・ゲルブ。

 時代が大きく動く中で、いかに魅力的なオペラを作り出し、改革を成し遂げていくのかが問われている。

 ゲルブは言った。

「出口の灯りは見えるが、それは自分で灯さなければならない」

 私たちは、出口の灯りさえも見えないが、しかし、その灯りは自分で灯さなくてはならないことだけは確かだと、ぜひとも知っておいてほしいと、……。 

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川江美奈子の“letters”はいいですよ

   北海道の石川晋先生(私は、晋さんと呼ぶ)が、21年続けているという「今年のアルバム ベスト10」がある。

 私は、ここ数年晋さんの「ベスト3」は、必ず手に入れて聴くようにしている。

 はずれがない。

 昨年の12月28日に出た「ベスト10」の「ベスト3」は、次のようなものだった。

 1位 Mr.children“SUPERMARKET FANTASY”

 2位 原田知世 “Music & Me”

 3位 川江美奈子 “letters”

 今回も、よかった。

 それでも、特によかったのは、川江美奈子の“letters”である。

 晋さんのコメントは、次のようになっている。

「“ピアノ”一曲だけで、永遠に不滅の一枚である。涙がこぼれそうになる、表現の極地を聴く。彼女は昨年の今頃まで死線をさまよっていたのだ。そして、もう一度だけピアノと向き合いたいと願い続けていたのだ。『言葉にならない夜は/ピアノを弾いて/二度と触れられなくても/どこかでいつも想ってるから』(ピアノ)」 

 毎日のように聴いている。これは何なのだろうか。

 ★

 小学生が参加する、ある音楽の会で、芥川也寸志さんが、小学生の女の子に質問をされたという。

「音楽は何のためにあるのですか?」

 彼は答えたと言う。

「あなたのこれからの人生の中で、どうしても必要になるからですよ」

 うまいことを言うなあと思った。

 川江美奈子の“letters”を聴きながら、きっとこの曲に救われる人たちはいるのだろうなあと思ってしまった。  

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生活習慣が学力向上の第一の要因

   1年生の国語の学力テストの採点をしながら、ずばりどのくらいのできばえか表紙の名前を見て、診断してみたのである。今週の木曜日の横浜市の一斉学力テストでのこと。私は、採点のお手伝いをしている。

 表紙の名前を見て、「この子は、きちんとできていますよ」「この子は、半分ぐらいしかできていないでしょう」「この子は、かなりきびしいでしょう」と、予想するのである。

 一緒に採点している先生方が、そんなはずはないでしょうという顔で見ている。

 ところが、ところが、実際に採点してみると、これが当たるのである。

 ほぼ8割から9割の確率で当たってしまう。

 どうして、名前を見ただけでそんなに当たってしまうのですか、ということになった。

 どこで予想をしたのか。それは、名前をきれいに、きちんと書いているかどうかなのである。

 成績が悪い子供は、名前をいい加減に書いているか、粗雑に書いているかなどである。

 私は、1年生を4回担任したことがあるが、その過程で、この事実が分かっていたのである。

 音読をさせたら、もう少し分かる。ほぼ10割の確率である。

 もちろん、1年生ばかりではないが、学年が上がるに従って、少しずつ確率は下がってくる。

 そうすると、名前をきちんと、きれいに書かせる練習をいっぱいさせれば成績は上がってくるのか、ということになるが、そうは言えない。

 名前をきちんと、きれいに書くこと、音読をきちんとできるということは、家庭での学習習慣や学習環境が、大きく関与していることなのである。

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 陰山英男さんのホームページの新年の挨拶で、陰山さんは、次のように言っている。

「かつて、学力は家庭で伸びると主張する私を、公立小学校の校長をやっていることから『税金泥棒』と罵った教育雑誌がありました。しかし、今や生活習慣が学力向上の第一の要因であることが、かなりはっきりしてきました。事実が間違った認識を改めてくれるのです」

 このことは、陰山さんの実践が明らかにしてきたことでもあるが、全国で実施した学力テストも、その事実をきちんと明らかにしてくれた。

 陰山さんは、今回出された「百ます計算の真実」(学研新書)でも、「学力というのは三層構造でつくられます。まず底辺には健全な生活習慣があって、その上に基礎基本の学習と読み書き計算のトレーニングがあり、さらにその上に多様な学習がある。この構造をしっかり理解する必要があります」と、その内容をくわしく書かれている。

 しかし、このような事実は、すでにアメリカでは、もっとずっと早く明らかになっている。

 1964年にアメリカ連邦政府によって実施された「教育機会均等調査」(通称コールマン調査)で、「こどもたちの学力を規定する要因の大部分が家族と子供の仲間集団、すなわち地域であること」を報告し、世界的なショックを巻き起こしている。

 要するに、学校は、家庭の生活習慣、学習習慣に乗っかって成り立っていることをまずきちんと認識すべきなのだということである。

 じゃあ、学校は、何ができるのかが問われる。

 ここがまだまだ曖昧な認識である。教師にも、保護者にも、またマスコミにも、教育関係者にも、まだまだ曖昧なままで、この問題をきちんと認識していないということが、全てを複雑にしている。

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つれづれなるままに……

  今日は(水)、朝から曇り空。夜には、雨も降ってこようという天気予報である。

 今日、心配しているのは、横浜日産スタジアムでのサッカー戦である。試合は、もちろん雨でもあるのだが、問題は、試合前の国歌斉唱である。

 私が勤めている学校の合唱団が、この国歌斉唱に登場する。

 7万人が集まるのである。また、このスタジアムの寒さは、ものすごいものである。

 この緊張と寒さで、21人の6年生は、大丈夫かなと思ってしまう。

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 今年になって、手帳を変えなくてはならないなと思った。

 20年ばかり、手作りの手帳を使ってきた。さまざまに試行錯誤してきたものである。

 この手帳は、本にも明らかにしている。

 自分の時間管理には、手帳は必須のものである。

 退職しても、今までの手帳を使い続けてきたのであるが、これがうまく機能しないのだ。

 しみじみと、退職したのだと思った。やはり、仕事が完全に違ってきたのだ。

 仕事の仕方によって、手帳も変わってくるのである。

 今年になって、市販の手帳に戻ろうと、横浜有隣堂へ手帳を買いに行った。

 1月のことだ。

 まだ、学校で仕事をしているので、4月からの手帳が必要である。ところが、どこを探してもない。店員の人に聞くと、

「ああ、その手帳ならば、2月の下旬にならなければ出てきません」

ということであった。そういうことになっているのである。

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 ある学校での研究会の話し合いの場に出たことがある。

 私はいつものように、ノートに話し合われたことをメモしていた。ふと、目を上げて、周りを見ると、若い先生方のほとんどが、何のメモをとっていないのに気付いた。

 ノートも持ってきていない。これには、ちょっとびっくり。

 それ以来、研究会での若い人たちの動向に気をつけているのだが、やはりノートにきちんとメモをしている人たちが少ないことに改めて感じ入った。

 ノートなんかにメモする必要がない、という考え方もあるかもしれない。

 だが、基本をはずしていると思う。

 参加している研究会で、1つでも2つでも学んでいこうとする姿勢は、まずノートにきちんとメモしていこうとするところから始まるはずである。

 職員の朝の会でも、私は、手作りの手帳に、いつも各先生がたが話されることを全部メモするようにしてきた。

 4,5月の忙しい時期には、ものすごい数の連絡がある。大事な事項も、たいしたことがない事項も、同じ声の調子での連絡である。

 メモしなければ、期限がついた報告書などは、締め切りを守って提出することはできないはずである。

 しかし、このようなこともやっている人は少数であることに最近気付くことである。

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 自宅で後片付けをしている。37年間の片付けであるから、なかなか終わらない。

 片付けながら、気付くことがある。大量のノート類が出てくる。ぱらぱらとめくると、最初の5,6ページしか書いていない。

 ノートごとに項目ははっきり書いてあるのだが、もうそれっきりで終わっている。

 つくづくこのような仕事をしてきたのだと、ため息が出てくる。

 だから、最近は、ノートは一冊。全てこれに書き込む。大学ノートでいいのだが、ここはちょっと凝っている。

 おもしろいノートを使っている。「Cornell Method Note」というノートである。

 アメリカのコーネル大学で開発されたノートということである。使いやすくて、なかなかである。

 

  

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A先生の実践記録感想・その2

 横藤先生からA先生の感想第2弾が送られてきた。

 

 さて、A先生の実践記録への感想第2弾です。

 これも、野中先生の分析には表れていないところ、ということで書いてみました。

 

 次に、A先生がご自分や子供たちの身体を、(おそらく無意識のうちに)よく意識されていることにも感心させられます。

 最近、縦糸をうまく張り、横糸を豊かに張ることができる教師は、身体意識もすぐれているということに気がつきました。

 ・背筋がすっと伸びている=言うことにブレがない。

 ・眉と眉の間が開いている=明るく、聡明。

 ・全身にこだわりがなく、ゆるんでいる=やさしく包容力とユーモアがある。

 ・それでいてハラが据わっている=決断が早く、実行力がある。

  いわば、教師の身体の中にもしっかりとした縦糸と、豊かな横糸が織られている状態です。そんな教師の身体が「教室にどんといてくれて」子供を安心させ、惹きつけるように思います。

 大体において、教師のメッセージは、ほとんどは身をもって伝わるのです。子供は、教師を「見て」いるのです。縦糸も横糸も、感覚として身を通して子供に伝わるのです。口先の言葉だけではダメです。

 A先生の記録にある言葉の数々ー「全身で正面からぶつかっていく」、「あなたたちのよごれた心を食べる」、「まっすぐにストーブのところに行き、その子の横に立ち(向かい合わないで)」、「とっても普通に、当たり前のように、『はいっ』と言って、手の平を出しました。」、「さいごは本能で対応する」、「私は、本気でした」、「ひとりひとりが、自分の体から出す声だけで。“声だけで”――。そこに意味があると思いました。」、そして随所に見られる「大笑い」…。ここには、生身の人間が身体ごと子供たちに向かっていく姿が表れています。しかも身も硬くせず、しなやかに。

 こんな身体をもつA先生に、子供たちが初日に「先生、子分にしてください。」と言い出し、交代でおんぶをしたくなるのは自然なことでしょう。

 学級を壊してしまう教師は、ほとんど休み時間に子供と遊びません。子供をきっちりとリードする身体、子供とフラットな関係性をもつことができるしなやかな身体は、子供と共に過ごす時間の中で鍛えられます。斉藤喜博や東井義雄といった教育界の巨人たちが、実によく子供たちと遊んでいたこと、そしてその姿を多く写真に残していたことの意味に、あらためて感じ入ります。

 心身は二元ではなく、一如です。実際にお目にかかったことはありませんが、A先生はきっと身体性も高い方だと思いました。スポーツか芸事、あるいは心身や言葉が磨かれるお仕事を通して、身体を鍛えてこられた方だと想像しました。(違うでしょうか?)

 そう思って読み進みましたら、A先生のお手紙の最後が「また、明日、元気に、廊下を走って、仕事がんばります。」と、傍点入りで締めくくられていました。A先生の弾む身体が見えてくるようです。

 そもそも、教師が縦糸を重視しないといけなくなったのは、家庭や社会の縦糸が喪失したからです。教師も、その心身から縦糸を喪ってしまったら、集団はリードしていけないのです。

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暗夜を憂うること勿れ 只だ一燈を頼め

  多くの方から実践記録送付のメールがあり、その対応に追われた1週間であった。

 数多くの反応も送られてきているが、返事が出せない状態である。ごめんなさい。

 私たちの教育現場が、いかに学級崩壊に追い詰められているかという状況が、さまざまな方々のメールによって確認することができる。

 メールの中には、何人もの方が、現在学級が崩壊している、崩壊に近い状態だと語らえているものがあった。

 あと30数日の期間である。凌いでほしいとメールを送ったものである。

 人生の途上には、何度かの危機がある。

 その時には、凌いでいく以外にない。凌いで、凌いでいるうちに何かが生まれる。

 何も生まれなくても、凌いだということではないか。それでいいと思う。

 ★

 私は、40代の10年間に10回のフルマラソンを走った。

 11月下旬に1年に1回のフルマラソンを走った。11月に走るためには、9月、10月にそれぞれ300kmから400kmを走らなければいけない。1日に10キロ以上の距離を走るのである。そうしないと、3時間前半で走ることはできない。マラソンは、その人がどのくらい距離を走ったかが正直にタイムに出てくる。誤魔化しようがない。

 そのくらい距離を走っていると、フルマラソンでは、30kmぐらいまではなんとか走っていけるのである。たいしたことがない。

 だが、35kmからゴールまでの7kmあまりは、七転八倒する。止める理由を考えたり、あとどのくらいかを何度も何度も見たりしたりして、なんとか走り続ける。

 その苦しみは、日常では経験できないものである。

 こんな苦しいことをどうして好んでやっているのだろうと、いつもいつも思っていたものだ。

 そんなときに、F・フィックスの「奇跡のランニング」を読んだ。

 そこにフィックスがビル・ロジャースと一緒に走ったところがある。

 ビル・ロジャースは、フランク・ショーターとともに、アメリカを代表するマラソンランナーであった。

 フリーライターのフィックスに、ショーターは、語る。

「マラソンをやるとき“これから42キロ走らないといけないんだ”なんて絶対に考えないことにしている。その場その場で全神経を集中する。先のことは頭のすみに置いておく程度にする。…略…

 絶対にいけないのは“あと1キロも走らないといけないんだ”などと考えること。これは絶対よくない。ただ、そのときそのときのことを考えればいいんだ。僕がマラソンをやるときは、初めはゆっくり走り、中頃でペースを上げてしばらくハードに走り、他のランナーにゆさぶりをかけておいてから最終ラウンドへ持って行く。途中、相当ハードに走るわけだが、それができるのもあまり先のことを心配しないからだと思う」

 ここを読んでいて、分かったと思った。

 「そうなのだ、そのときそのときを考えればいいんだ。あと何kmとかは絶対に考えてはいけないのだ」と。

 苦しいときには、特に大切だ、と。

 このことは、相当に大切な言葉だと思っている。

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 学級崩壊などに陥っている人に、私がするアドバイスは、この時に学んだことである。

 「先のことを考えない。その日その日にできることをする。無理をしない」

 そうして、その日その日を凌いでいくのである。

 先のことを考えるから、絶望的になるし、追い詰められる。

 吹っ切れるのだ。楽にはならないが、そうして生きていくことが、きっと人生には何度かある。

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 親しい年若き友人から寒中お見舞いのはがきをもらった。

 その最後に、佐藤一齋の言葉が書いてあった。

 一燈を堤げて暗夜を行く 暗夜を憂うること勿れ 只だ一燈を頼め

 

 

 

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A先生の実践記録感想・その1

  実践記録の呼びかけに応じてくださったメールが、すごい。

 その対応に追われ、今も追われている。こういうのを、うれしい悲鳴(?)というのだろうか。

 とにかく、みなさんありがとうございます。今までこのような実践記録がなかなか出なかったのである。出せなかったというのが、まあ本音であろう。

 A先生には、快諾してもらったと書いたが、ほんとうはそうではなかった。A先生もずいぶん悩まれたのである。

 だが、公開に踏み切ってもらった。ありがたいものである。

 この記録からさまざまなものを読みとっていただきたいと思う。

 ★

 縦糸・横糸理論の最初の提唱者である横藤先生より実践記録の感想をもらった。他の方からも、数多くの感想をもらっているが、ここはぜひとも横藤先生の感想だけは掲載していきたいと思う。

 横藤です。

 A先生の実践記録の感想を書いてみました。まず、3分の1くらいをお送りします。

 実に見事な実践です。子供たちの作文を読んで、目頭が何度も熱くなりました。この見事な実践と控えめな記録からは、見事な縦糸張り、豊かな横糸通しがあふれるように見えてきます。野中先生の分析と考察もお見事です。ほとんど同感です。野中先生と重ならないように、私の感想を述べてみたいと思います。

 まずA先生の児童理解が本物だということに、もっとも強く感じさせられました。縦糸が、本物の児童理解から出ているのです。

 荒れている学級のことを、A先生が語っています。

「子供たちがあそこまで荒れたのは、子供たちの悲鳴だと、信号だと思いました。子供たちに心を配って、気持ちをくみ取って、ちゃんと叱って、ちゃんと認めて、責任をもってどんといてくれる人が(いてくれようとしている人が)いないことへの寂しさ、不安…。クラスが荒れるという形の裏には、子供たちが流した心の涙や、痛みがあることを、担任はどこまで、全身で感じ取ろうとしてくれていたのか……。子供たちは、あんな形で、あんなことまでして、“見てくれ!!”と叫んでいるのに……。」

 まだ出合う前の子供たちの実態を、ここまで共感的に深く語っていることに感動させられます。よく「共感的な理解が大事だ」と言われます。それは確かにその通りですが、その理解の底の浅さが、問題の解決をますます困難にしてしまう例を多く目にします。本人は「共感」したつもりですが、実際は指導から手を引き、低い状態に甘んじさせ、ますます子供を甘やかしただけです。これは、「支援」などと言ったものでもよく見られる現象でした。そもそも教育、子供、人間といったものへの理解の底が浅いので、うまくいくはずなどないのです。そこでうまくいかないと、「やっぱりダメか。」と、今度は一気にゼロ・トレランスに傾く。こんな茶番が全国で繰り返されています。その底の浅さに子供も保護者もどんどん離れていく。悲しい風景です。

 A先生の児童理解も、名前をつけるなら「共感的な理解」でしょうが、その理解のレベルは、単に指導から手を引くものとは、まったく違います。スパイラルな階梯を何回りか上がったものです。このような本物の「共感的な理解」から出てくる縦糸だから、子供は安心して受け入れるし、「共感的な理解」が豊かだから、横糸も自然に、豊かに通るのですね。

 「まず縦糸を」ということで、徒に声を大きくした教師がいます。(まあ、それでもはっきりと教師の意図を伝えるだけでも、以前よりは少しは効果はあったということですが。)そうならないのです。1年を通じて揺るぎない縦糸を張るには、その出所が本物でなくてはならないのです。教師の都合のために、「子供を座らせる」ことを目的にして、声を大きくするのではなく、「この子たちにこれこれを是非伝えたい。だから、まず座ってほしい」というように、静かに縦糸を張り続けるのではなくては、子供はついてきません。A先生は、まずもってここがしっかりとしているのです。

 長くなりました。続きは、また。

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業務連絡です

   学級崩壊立て直し記が、まとまった。

 A先生に送付し、加除訂正をしてもらった。A4判20枚になった。

 公開をしていきたいと思う。

 ただ、この文書の性質上、不特定多数の眼に触れるのはぜひとも避けたい。

 私に、メールをください。(メールは、私の本の最後に書いてあるので、それを見てほしい)

 その方に、添付資料で送付したい。

 一応、一太郎の添付で送付したいが、それが難しい場合はテキスト形式で送れます。そのように連絡してほしい。

 公開するために作られた記録ではない。私の方で、強く要望して実現したものであるので、その意を汲んでもらいたい。

 よろしくお願いします。

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