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崩壊クラスの立て直し記

  親しい校長先生からお手紙をもらった。その中に、これも知り合いの先生の実践記録が入っていた。

 この知り合いの先生とは、以前学年が一緒で、今も年賀状の交換をしている関係である。

 この実践記録には驚いた。

 学級崩壊のクラスに入って、そのクラスを立て直した記録である。

 公開するために書かれたものではなく、メモとして手書きで書かれたものである。

 臨任経験のある初任の先生のクラス(4年生)が崩壊し、そのクラスで授業をしてもらえないかと頼まれたところから始まっている。

 その知り合いの先生は、一旦教師を辞められ、また臨任として勤めているところでのことである。

 12月下旬から2教科の学習を教えられ、2月中旬からほとんど教室に入られていた。

 これだけの期間で、みごとにクラスを立て直されていて、その手腕に驚くばかりであった。

 先生は、最後にこどもたちに次のように書かれてある。

「4の○の風景(空気)が、ふつうの風景(空気)になったね。みんなの表情が、やわらかく自然になったね。素直な笑顔になりましたね。4の○は、思った通りの、いいクラスでした。しっかりしていて、やさしくて、人の気持ちがよくわかる、いい子たちでした。明るくて、とっても、がんばる子たちでした。素直な子たちでした。

 私は、4の○に行くのが楽しみでした。みんなといっしょにいるのが、とても楽しくて、どの子も、みんな、かわいかった…。4の○のみんなに出会えて、よかった…。

 あと少しで、4の○とも、さよならです。今は、寂しさで、いっぱいです。

 短い間でしたが、先生についてきてくれて、ありがとう。みんなに、たくさん助けてもらいました。みんなにたくさんやさしさをいただきました。みなさんのおかげで、先生も、がんばれました。

 いつも支えてくれてありがとう。やさしくしてくれてありがとう。

 本当に 本当に、ありがとう……。」(○はクラスです)

 短い間に、クラスでどのように先生とこどもたちとのやりとりがあったのか、この言葉が全てを物語っている。

 先生は、実践記録のなかに、次のように書かれてある。

「詳しいことは分かりませんが、私は毎年“初任のクラス”に関わるので、崩壊するクラスとしないクラスの分岐点は、その先生が“責任の所在”をどこにおいているか、によるような気がします。どこかで子どもたちのせいにしている先生のクラスは崩壊していきました。そして「自分に力がなくて……ゴメン、でも子どもたちがかわいくて…」とさいごまでそう言っていた先生のクラスは、ぎりぎりのところで崩壊しませんでした。先生の体温や本気が伝わるのでしょうか…」

子どもたちの作文も収められていて、貴重なものであった。

一人の子供(特に暴れていた子供の一人)の作文は次のようなものである。

「ぼくは○○先生がきて、こう思った。『あっ、自分をわすれていたと』きずいた。だけど○○先生がきて、ぼくがゆうたちばじゃないけど○○先生はみんなのことを自分の子どものようにやさしくしてくれたことはずっとずっとおとなになってもぜったいわすれません。これからもすこししかないけどかならずわすれません。いままでありがとうございます」

 ちょっと感激する作文である。

 ささやかな時間で、この暴れていた子どもたちをこのように変えられている実践とは何か。

 「なぜ、あなたは先生なのか」が問われている。

 暴れていた子供に、「○○先生がみんなのことを自分の子どものようにやさしくしてくれたことはずっとずっとおとなになってもぜったいわすません」とまで言わせている。

 これは、子どもへの指導の手立てや技術や方法とは無縁である。

 「あっ、自分をわすれていたと」と、その子どもは気付いてもいる。この言葉は貴重だ。

 わたし流に言えば、その子どもは「生徒する」ことを忘れていたということを○○先生に気付かされているということになる。

 こんな貴重な資料が埋もれているなんてとんでもないなと思いませんか。

 何かの形で、みなさんが読める形で公開できないものか、これから交渉してみたいと私は思っている。

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コメント

 「あっ、自分をわすれていたと」
なんて、すごい言葉でしょうか。
その背景に、当たり前のことをゆるがせにしない先生の様子がうかがえる気がします。
ぜひ、拝見したいです。

投稿: イクトス | 2009年1月17日 (土) 16時51分

学級崩壊のクラスを、これほど短期間に立て直すことができるとは、どんな実践をされたのか、ぜひ拝見したいです。きっと、心の温かい素晴らしい先生なのでしょう。子どもたちはもちろん、保護者からも、どれほど感謝されたことかと思います。

その一方で、クラスを崩したことのあるわたしは思うのです。今、その初任の先生はどうされているのか。子どもたちの変貌を見て、どう思われたのか。どうしてもっと早く、助けてもらえなかったのか。崩したくて崩したわけではないでしょう。その先生の心の傷の深さを思うとき、わたしも涙がこぼれます。

投稿: iwai | 2009年1月17日 (土) 21時46分

是非とも、その立て直しの記録が共有化されるといいですね。
「分岐点は、その先生が責任の所在をどこに置いているか」頷けます。
子どもへの指導の技術や方法よりも、先生としての人間性が問われると思います。
だから、先生自身が人間としての修養を高めていくことも重要なことだと、最近思ってます。

投稿: 野田 | 2009年1月17日 (土) 23時09分

大変興味深く読ませていただきました。私流に言いますと、「横糸」が見事に張り巡らせられて、その子その子の模様(忘れていた自分)が見えてきた、ということでしょう。その先生は深くは自覚されていないかもしれませんが、「縦糸」も、本数は少ないけれど、しっかりと張っていたはずです。
この先生が、出会いの場で何を語ったのか。3日間くらいのうちに、望ましくない小さな動きに対し、どのように声をかけたのか、どんな授業をしていたのか、休み時間には何をしていたのか…、のポイントを整理したいなあ、と思います。また、その「教師の責任ある行為」を、どのような考え(観)で行ったのかも聞き出したいなあと思います。
野中先生、ぜひまとめてください!

投稿: 横藤雅人 | 2009年1月18日 (日) 07時11分

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