神は、いつも細部に宿り給う
1年生の教室へ出かける日である。担任の先生より早く教室へ行く。
少し遅れて担任はやってきて、すぐ朝の会が始まる。いつもの光景であろう。
2時間目が体育の時間だったので、子どもたちは全員体操服に着替えていた。
初めてのできごとであったらしい。今までは、何度も先生が「体育が2時間目にあるときには朝来たら体操服に着替えているのですよ」と言っても忘れて着替えていなかったらしい。
担任は、「今日は、着替えているんだね。よかった」と言って、次の話に行ってしまった。
「ああ~~だめだなあ」と思った。
放課後の反省会でも、とくにここを強調した。
子どもたちが、教師の指示がなくても、初めて着替えているのである。
すぐに、誰が最初に着替え始めたのか、みんなに呼びかけた者がいるのか、……などを見つけ出すのである。
そして、その子どもたちが出てきたら、みんなの前でべらぼうに褒め称えること。
先生の指示無くして、自分たちで、できるようになったのである。
1年生の子どもたちは、理想主義者だから、必ず褒め称えたことには続いていこうという気持ちになるはずである。
そして、褒めることは、<みんな>ではなく、<個>でなくてはならないことも鉄則になる。
★
担任をはずれてみて、こんな小さなことがとても気になる。
私は、1年生を4回担任したことがある。気付いたことがある。
低学年の子どもたちが自分たちでできた小さなことを見つけ出し、一つ一つ褒め称えてあげ、それを積み重ねると、すごいクラスになるのである。
今、集団としてきちんと成立してくるのは、実は、高学年ではなく、3年生までの低、中学年であると思っている。
「自分たちでできるようになったこと」という眼で、1年生の子どもたちを見ていると、結構あるものである。
その日、<テレビの後ろを掃除していた子どもが2人いた><おしゃべりをしている子どもたちに『静かにしてください』と注意していた>……などのさまざまなことが目につく。
担任は、なかなか気がつかない。授業をいかに進めるか、早く掃除を終わらせようなどいうところに気が向いているので、なかなか子どもたちの小さな行為に目がいかない。見えない。
ここだなと思う。
教師としての力量をつけるとは、授業の力量も学級経営の力量も必要だが、最も必要なのは、このような小さなことに眼を向けることができる視線だ、と思ってしまうのである。
神は、いつも細部に宿り給う。
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