小泉容疑者のことを考える
ブログが滞りがちである。書くことがないわけではないが、何せ時間がない。
いま3月31日までのブログを原稿にする作業をやっているからである。
退職の記念として一冊にまとめようというわけである。
もうすでに書いたものをまとめるだけであるから、たいしたことではないと思っていたのだが、これが大変な誤算である。
膨大な量のブログがある。これを取捨選択しなくてはならない。これにものすごい時間がかかった。
一応、整理ができたので、原稿作業を始めたが、これもなかなか進まない。
ブログは発行するときには、基本的にはざっとしか読み返していないので、間違いが多い。これを直しつつ、原稿作りをしていくので大変な作業になる。
いまこれにかかり切りになっているわけである。
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小泉容疑者のことである。ずっと最近は、マスコミはこの話題を追っている。
周到な準備をして、事件を起こしている。誰でもが、最初は「年金テロ」と思ったはずである。
ところが、動機はずっと「34年前の飼い犬チロの仇討ち」である。そして、どうして厚生官僚なのかというと、官僚は悪の中心だからというのだから、きつねにつままれたような話である。
マスコミも、警察も、きっと他にきちんとした動機があると踏んでいる。
まさかそんな不可解な動機で、あんな殺人事件を起こせるわけはないと思っている。
「飼い犬チロの仇討ち」と「官僚批判」という認識ならば、ほぼ小学生高学年のレベルの問題である。
しかし、小泉容疑者は、もう46歳になっている。
それこそ34年間の間、こういう認識に、さまざまな認識が付け加わって考え方は大きく変えられていくはずである。
それが「大人になる道」である。きちんとした社会性が身についていくことである。
こんなことは、まだまだ日本の社会では常識である。
しかし、この常識を小泉容疑者は崩してしまっている。
私は、このような2つの動機しか出てこないのかもしれないと思っている。
ほんとうに、このような動機で殺人を計画し、実行したのではないかと思い始めている。
★
教育現場で長いこと勤めてきた経験から判断すると、日本社会では、こういう存在が出てきてもおかしいことはないと考えている。
つまり、小学高学年ほどの幼稚さのままで、それ以上に何も学べないままに大人になっている者は、ごまんといるからである。
彼らは、小学生のままの幼稚さのままに自己中心的な自我を囲い込んで、そこにテレビや音楽やファッションやゲームやセックスや漫画やスポーツについての最近情報をぎっしり詰め込むことを「成長すること」と錯覚したまま成長する。
しかし、社会は、そんな甘いものではないので、彼らを相手にしない。
だから、小泉容疑者のように、彼の生活は、ほとんど社会との接点がない。
その結果、いつまでも幼稚な認識は変わらない。彼の認識は社会でもまれることがないためである。
★
私は、学級の中に「生徒」することができない子供たちが層として登場してきていることをずっと警告してきた。この連中が、学級崩壊の中心を形成している。
「生徒」するとは、学びの姿勢をとることを意味する。
学びの姿勢が取れないというのは、知識が身につかないということではない。
「ものごとを学ぶ」ための基本的な姿勢が身につかないことを意味する。
「ものごとを学ぶ」というのは、「教えてくれる人間」から「やり方」の説明を聞き、それを自分なりに受け入れ、それに関連した課題に応用してみて、うまくできないときはなぜできないかを指摘してもらう、という「教師側」と「生徒側」との双方のコミュニケーションによって成り立つ。
これが、学ぶということの基本である。
しかし、この学びの訓練を通して、子供たちは、「説明を聞くときは黙って聞く」、「あとで思い出せるようにノートにきちんと記載する」、「学習している周りの人の邪魔をしない」……などの基本的マナーを身につけていく。
しかし、「生徒」できない子供たちは、小学生段階で「ものごとを学ぶ」という姿勢を放棄するのである。だから、「ものごとを学ぶ」仕方そのものを身につけずに大人になってしまうのである。
「学ぶこと」がなくなるわけではない。むしろ、大人になったら、人から学ぶことは多くなる。
しかし、彼らは、「自分の知らない情報や、自分が習熟していない技術」を身につけられない。「ものごとを学ぶ」双方のコミュニケーションの仕方が分からないからである。
要するに、彼らは、「自分が知らないことや、自分ができないこと」を学んで知ったり、身につけたりするための「すじみち」が分からないのである。
だから、彼らは、いつまでも幼い小学生高学年程度の知識やレベルを量的に増やしていく以外の道しか残されていない。
このようなことで、社会で生き続けていくことはとても困難になるはずである。
こうして小泉容疑者が生まれる。
ただし、彼に続く同胞がこれからごまんといるのである。日本社会は、彼らを抱え込んでいかなくてはならないことになる。
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