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2008年11月

児童生徒の暴力最多

   「児童生徒の暴力最多」という新聞見出しが、トップニュースとなった日があった。11月21日(金)の朝日新聞である。

 詳しく文科省のホームページで調べてみた。

 高校は微増であるが、小学校、中学校がぐんと増えている。

 小学校の増え方が、特に顕著である。

 ダントツの多さは、神奈川と大阪である。

 先日のブログで、大阪の問題を書いたが、神奈川でも、なかなか大変である。

 私のいる横浜も騒然とした雰囲気だが、周りの市も、とんでもないことになっているということを聞いた。

 おそらく小学校は、学級崩壊がらみの問題として増えているととらえた方が正確である。

 1000人あたりの発生件数でとらえていくと、都道府県別のワースト10は次のようになる。(平成19年度)

 1,香川県(10.1) 2,高知県(9.3) 3,神奈川県(8.6) 4,京都(8.1)

 5,奈良県(7.9)  6、大阪(7.2)  7、岡山県(6.0) 8,兵庫県(5.4)

 9、岐阜県(5.3)  10、山口県(5.0)

 ちなみに、平成18年度もあげてみよう。

 1,高知県(9.1) 2,香川県(8.3) 3,京都(8.0) 4、神奈川県(7.8)

 5,奈良県(6.2) 5,和歌山県(6.2) 7,大阪(6.0) 8、岡山県(4.9)

 9、島根県(4.1) 10、岐阜県(4.0)

 四国の高知、香川というのは、どうしたのだろうか。

 香川というのは、全国学力テストでは、全国ベスト3に入る上位県であるが、暴力行為も、ダントツに多いということになる。

 比べてみると、全体的に、平成18年度よりも平成19年度がぐんと多くなっていることが分かる。

 暴力行為が少ない地域は、東北、北陸、九州である。ほとんどが、1000人あたりの発生率が、1から2ぐらいの数字である。

 暴力行為が多い地域は、関東では、神奈川県がダントツだが、(ちなみに東京は、1.8である)関西では、大阪、京都、兵庫、奈良などが上がってくる。

 おそらく、かなり広範囲に、ひどい学級崩壊が頻発しているとみていいのではないかと思われる。

 

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晩年の人生との取り組み方

   古くからの友人の合唱祭に出かけた。

 退職して、友人は、地元の男性合唱団に入部し、1年5ヶ月ぐらいの練習を経て、今日の28周年記念演奏会に登壇している。

 私は、友人夫婦と一緒に勇んで出かけた。晴れ舞台である。

 2時間びっしり。第4部構成である。

 60代の人たちが中心なのだろうか。70歳代の人もいそうな感じである。

 合唱の途中で、誰か倒れないのだろうかと少し心配するほどに熱気が感じられた。

 白熱した合唱は、なんと言っても最後の第4部「尾崎喜八の詩から」という組曲であった。

 尾崎喜八という詩人の詩を組曲にしていて、それを歌い上げるのである。

 6つの詩なのだ。覚えるだけでも大変だっただろうに、見事にそれに取り組んでいた。

 聴いているこちら側の観客(1000人近く入っていた)も、同じような年代なのだ。

 圧倒されたのではないだろうか。

 帰りに玄関先で、友人に会った。「よかったよ。感激した」と伝えた。

 おそらく、友人は、第二の人生の一歩をこのようにして歩み始めたのであろう。

 まずは乾杯。

 ★

 森信三先生は言われた。(一語千鈞)

「人間は、退職後の生き方こそ、その人の真価だといってよい。退職後は、在職中の三倍ないし五倍の緊張をもって、晩年の人生と真剣に取り組まねばならぬ」

 友人から聞いた話である。

 1年先輩の校長さん(1回だけ話したことがある)が、昨年退職された。

 教育界からすっぱり足を洗われた。

 何をされているのか。

 朝5時起きで、毎日、近くの遊歩道路のゴミ拾いをされる。

 拾ってきたゴミを乾かし、選別し、集配のゴミに出す。

 それから地域の自治会に参加され、自治会の役員になり、自治会改革に取り組みたいらしい。

 「自治会を変えていきたい」

 校長時代に比べても、余計に忙しい生活をされているということである。

 すごい人がいるなと思った。

 森信三先生は、別のところで言われている。

「往相はやがて還相に転ぜねばならぬ。そして還相の極は、施であり奉仕である」

 私は、往相を往路、還相を帰路として考えてきた。

 1年先輩の校長さんは、もうすでに還相の極を歩いておられるのである。

 

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法則化運動が、残したもの

  今までの教師生活で、一人だけ「どう転んでも、この人の子供を惹きつける魅力にはかなわない」と思った同僚がいる。

 20年ぶりになるのであろうか、その人に電車でばったりと出会った。

 あのときの溌剌とした振る舞いが消え去っていて、どこかおどおどした様子であった。

 彼は正直に「先生、クラスが思うようにいかなくなって、ちょっと鬱病で入院していたのですよ」と告げてくれた。

 思わぬ告白に、びっくりしたものである。彼さえも、このような状況に追いやられるのかと……。ギター片手に、盛んに歌で盛り上がる彼の姿が浮かび上がった。

 20年前、法則化運動がブームになっていた。

 彼は、つまみ食い的に実践し、「うまくいきました」と何度も聞いたことがある。

 それ以上には、彼は何も踏み込むことはなかった。彼の教師としての才能は、きらきらしていて、もうそれ以上に必要がないと思ったのだろうか。

 ★

 こんなことをふと思い出している。同時に、あの頃の法則化運動のことを考える。

 今回、京都の「明日の教室」で私が提案したことは、「私のこれまでの試み」が一体何だったのだろうかという問いかけである。

 私は、40代の10年間をフルマラソンを走ることに費やしてきた。

 学校では、教務主任を務め、クラスを担任し、5時には帰宅し、夕食作りをし、その間にフルマラソンの練習をしていた。月に300キロ程度走るわけである。忙しい生活であったが、充実していた。クラスもうまく回っていたし、このまま定年を迎え、第二の人生を送ろうと考えていた。

 しかし、学級崩壊は、私のそれまでの方向を大きく狂わすことになる。

 これは、前代未聞のとんでもない事態なのだと思われたのである。

 55歳から3冊の本を出した。

 そこでの問題提起は、「自分の行ってきた実践を 分かりやすい言葉にまとめ、さらにそれを仕組み化することで、追試できる形にしてきた」というものであった。

 しかも、名人教師の実践記録というものではなく、(そういう教師でなかったので)普通の教師が、ちょっと努力すればいつでも実践できますよという形であった。

 伝える形にするために、実践に名前をつけた。

 「3・7・30の法則」「その日暮らし学級経営」「自主管理の原則」「一人一役の原則」「目標達成法」「ちょこちょこ学級会」「包み込み法」「伝達法」……ということだ。

 批判も多い。法則にも、原則にもなっていないものを安易に名付けていると…。

 おそらく、私の提案は、法則化運動の延長上にあったのだと思う。

 ★

 私の最近の提案が、ハウツーに傾きすぎている。他の人もそう思われているだろうが、実は私もそう思っている。(笑)

 最近では、北海道の堀裕嗣さんから「実学志向は自殺行為である」と批判されている。これも私のハウツー傾向への批判である。

 堀さんの私への批判は、彼が主宰している「ブラッシュ・アップ」では普通のことで、手作りの彼らの雑誌では、当たり前に互いの批判は繰り返されている。

 ほとんどの雑誌などが、互いに批判し合うという風土をなくしている中で、この雑誌だけが唯一この風土を堅持している。大変なことである。(私も、この雑誌に連載をしている)

 この雑誌で、堀さんが、法則化運動を次のように書いている。

 「子供を動かす法則と応用」(向山洋一 明治図書)を推薦するコメントして「いまとなっては、読み直すことなどほとんどないのだが、新卒からの数年間はこの本を繰り返し読んでいた記憶がある。調べてみると、いまは絶版だと言う。向山洋一についてあれこれ言う者はいるが、法則化運動もそろそろ歴史となりつつある現在、感情論を抜きに向山洋一を正当に評価すべきだ」

 私は、堀さんよりもずっと法則化運動寄りで(組織に所属することはなかったが)さまざまな実践をしてきた。

 向山洋一さんの実際の授業を3回も見ることができたし、大森修さんの授業も見てきた。それぞれに素晴らしい授業であった。

 ★

 法則化運動で、私が評価する一つは、授業を発問、指示、説明に区分けし、追試という形を作り上げたことである。

 このことで、「マネをする」という風土をきちんと確立したのだと、私は思っている。

 それまでは「理論を実践に」という言葉だけがあるという状況で、「理論や哲学なくして、実践なし」という状態だった。

 そこに風穴を開けてくれた。

 さまざまな優れた実践を追試しながら、「なるほど、このような形になるのか」と納得していくということは、大切なことだと思う。

 最初は、誰でもが物まね、追試の形から入る。それでいいし、そこからしか始まらないと思う。

 現場の教師の大変さは、常に「具体」を問われることである。

「あなたの言うことはもっともだし、理論的なこともよく分かる。それを授業で見せてほしい。学級経営で見せてほしい」と、常に問われるのである。

 現場を生きるということは、そういうことである。

 常に、「具体」がなければ、現場は生きていけない。

 その具体は、さまざまにぶれるし、「理論を実践に」などという直線的なものではありえない。

 「実践から実践へ」と始終繰り返しながら、そこから理論が組み立ててこられたら、それは唯一伝達可能な実践になる。

 ささやかに、私はそんなことを考えてきたのだと思う。  

 ★

 ビジネス界で、最近法則化運動のような展開をしているのは、勝間和代さんだ。いずれも、彼女の本は、ベストセラーになっている。

 「『長期的な視点で投資をしよう』と口で言うのは簡単でも、具体的にはどうしたらいいのかは、わかりにくいかもしれません。

 そこでこの本で私は『自分で行ってきた無意識での行動』(これを、専門用語では『暗黙知』と呼びます)を、わかりやすい言葉で説明し(これを『既知化』といいます)、さらにそれを『仕組み化』することで、誰でも同じことをできるようにしたいと考えています」(「年収10倍アップ時間投資法」ディスカヴァー)

 私が使った「仕組み化」という言葉は、勝間さんからもらった言葉である。

 ただし、これは危険な言葉でもある。

 勝間さんは「誰でも同じことをできるようにしたい」と言っているが、これは個人的な努力で自分の時間管理を見直していく方法であり、子供たち(生徒)相手の私たちの教育的実践とは趣が違う。

 しかし、方向は同じだと私は思う。

 ★

 さて、冒頭の彼のことである。

 法則化運動のさまざまな実践をつまみ食いして、それだけで過ごしていた彼のそのときの方法は、現在の状態を予感させたのかもしれない。

 ハウツーの方法には、いつもこのような毒がつきまとう。

 方法は、方法にしか過ぎないということを自覚して使うことである。

 かつて百ます計算を批判した一冊の分厚い本が出版されていた。

 本屋で立ち読みしたのだが、笑ってしまった。

 その百ます計算を実践して、いかにその方法がまずい方法であるかを批判されていた。ほとんどの実践家が、そのような批判をされていたのだ。

 最初から批判するために、クラスの子供を使って実践し、「こりゃだめだ」という実践論文にするという手法である。

 そりゃあないだろうと思った。

 方法というものは、その先生がやってみたいという熱意によって、子供たちに受け入れられるかどうかが決まるものである。

 最初から批判するためにだけ行った実践が、うまく子供たちに受け入れられることはない。

 方法というものは、ベストなどなくてベターということしかない。教育実践などはそういうものであるはずだ。

「よし、この方法でやってみよう」という実践を行ってみて、さまざまな結果が出る。

 問題は、その結果をどのように今後の自分の実践に活かしていけるか。

 そのことだけが残された道である。   

 

 

 

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演奏を聴きながら、感動に浸った

  演奏を聴きながら、感動に浸っていた。

 5時間目の音楽発表会でのこと。学年ごとの発表会だった。

 今日は休みだったのだが、「この発表会だけは、実際に聴いておいた方がいいですよ。すごいですよ」と副校長先生から言われていて、午後学校へ出かけた。

 体育館は、保護者たちですし詰め状態だった。ものすごい参観者だ。

 横浜では、この1週間を学校を開く週間とし、いつでも保護者の参観は自由となっている。その最後を飾って、この音楽発表会が企画されている。

 1年生の「きらきら星」「崖の上のポニョ」から始まった。

 学年が上がるにつれて、歌声と器楽演奏は本格的になっていった。

 5年生の発表は、「キリマンジャロ」の器楽演奏だけ。一人の女の子のドラム演奏が入っているので、本格的である。

 これがすごい。全員がし~~~として聴き入る。

 終わったら、即座に「アンコール」の嵐。こんなすごい器楽演奏を聴いたことがない。

 最後は、6年生である。「6年生はすごい」と前々から聞いていたので、期待する。

 「この地球のどこかで」という曲で、全員が歌い始める。

 評判通り、すばらしい歌声である。

 学年単位での、こんなすごい合唱は、初めて聴く。

 そして、器楽演奏で「愛のテーマ」である。

 これにもドラム演奏がつくので、やはり本格的な演奏になる。

 聴いている保護者達も、6年間を経てくるとこのような演奏をするようになるのかと、驚いているではないかと思われる。

 これも、「アンコール」が入って、二度の演奏である。

 最後に、本校の合唱部が登場してきて、「手紙」を歌った。ハンカチで涙をふく保護者達がいて、それは感動的な歌声であった。

 

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底の浅い愛で、子供をダメにしている

  「これは覚悟する以外にない」と……。

 そして、教務主任の先生にインターネットで教材を探してもらった。

 「うとてとこ」という詩教材。

 昨日、前任校の大池小学校に野口芳宏先生が見えられ、子どもたちへの授業と講演があることになっていた。

 私は、40分前に到着していた。そろそろ野口先生も見えられる。

 大池小学校では、もう3回目の授業である。

 しかし、30分、20分過ぎても見えない。

 副校長と「何か事故があったとしたら、野中先生が代わりに授業してもらえますか」という打ち合わせになった。

 他の学校からも先生達が大勢見えられている。

 とりやめるわけにもいかない。6時間目の授業は、14:10からである。

 子どもたちも待っている。

 教材は、「モチモチの木」である。

 この教材では、とてもできない。3年生は、もう10年以上受け持っていない。

 そしたら、野口先生の模擬授業で有名な「うとてとこ」しかないではないか。

 緊張は高まるばかり。それでも覚悟して、やる以外にない。

 と、そこへ正門から野口先生が入ってこられる。授業まで10分を切っていた。

「ああ、良かった。私は、名人の代わりに大それたことをしようとしていた」

 ★

 京都で、池田修さんから「野口先生は、もう教育界の人間国宝だから、絶対に授業は見ておかなくてはいけませんよ」と言われていた。

 いつもの野口節で、授業が始まった。

 ある学校は、野口先生の授業を見るために、ほとんどの教師を校長自ら引き連れられてこられていた。すごいことである。

 野口先生は、「立ち止まり通読法」と言われている手法を使って、自在に子供たちの中に入って行かれる。

 何気なく読んでいるところに、発問を突きつけられ、子供たちをはっとさせられる。そして、「ノートに○か×をつけなさい」と厳しく指示をされる。

 「まだ、つけていないものはいないか」「必ずどちらかをつける」「いつもなぜだろうと考えながら読んでいくのだ、なぜに強くなる」

 野口先生は、言われる。

 「発問をし、○か×をつけさせる。自分の立場を決めさせると、人のことが気になるものです。自分の立場を決めると、不安や期待が高まる。それがいい。そういうふうに、常に参加を強いていく」

 ★

 今回の授業で強く感じたのは、「授業の主体は、教師である」という野口先生の主張についてである。

 授業を進めて行かれるその姿、子供への発問、子供からの答えの引き出し方、…全てが、授業の主体は、教師なのであるということを印象づけられていた。

 多分、多くの教師達は、その進め方に強引さを感じてしまうのではないか。

 授業の進め方の見事さ、展開のうまさには惹きつけられながら、多くの教師達は、どうしても越えられない壁を感じてしまうのではないかと、私は思った。

 子供が、教師の発問に答えたとする。私たちなら、曖昧に、たどたどしく答えたならば、すぐわかりやすくまとめてやろうとする。しかし、野口先生は、安易にそうされない。

 そこが、すごいと思った。

 「底の浅い愛で、子どもたちをダメにしている」

と、強く主張されていた。否定することをおそれてはいけない。子供たちは、その否定の中から育っていく、と。

  

  

 

 

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へこむんじゃないですよ。凌ぐのだ

  14日(金)は、朝7時30分にタクシーで新横浜へ向かう。

 岡山までの4時間。新幹線である。

 そこから津山まで1時間少し。岡山県教育委員会の津山事務所での講演である。

 岡山から津山までの道のり。電車に乗りながら、だんだん不安になっていく。

 少しずつ紅葉が進む、素晴らしい田園風景。ちらほらとある家並み。

 私が予定している講演内容が、果たしてこんな土地に合うのかどうか。

 こののどかな田園地帯で、教師と子どもたちの望ましい関係が実現しているのではないか。

 そこで、その関係をかき乱すような私の話が通用するものかどうか、とてもとても心配になる。

 迎えにみえた参事のM先生に、津山を少し案内してもらう。

「京都とそっくりですね」というほどに、昔の家並みが保存されていて、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 静かな、落ち着いた津山の街。私は、こんな街が大好きである。

 ★

 なぜ津山まで出かけてきたのか。

 昨年のことであろうか。津山事務所の主事の方からメールがあった。(この方は、橘大学の大学院で研修されていたことが後で分かる。)

 もし講演が実現できるようでしたら、津山に来てもらえるかというメールであった。(この方自身は、教師免許はもたれていなかった)

 まさか、そのことが実現できるとは、実際のところ信じていなかった。

 ところが、津山事務所というのはすごいところで、一人の主事の方のこういう願いを実現してしまうのである。

 この日の講演に、鳥取からH先生、また、知り合いのS先生など車で2時間ほどの距離をかけつけてこられていた。ありがたいことである。

 夜、事務所の所長さんのK先生、参事のM先生、主事のYさんと一緒に食事をした。ざっくばらんに話される所長さんの話に大笑いしながら、この土地でしか飲めないという日本酒を飲ませてもらった。

 これが驚くほどのうまさであった。

 私は、ほんとうは日本酒の通である。外では、ほとんど焼酎のお湯割りにしていて、日本酒は飲まないことにしている。失敗が何度かあるからである。

 日本酒は、後でものすごくきいてくる。だから、調子に乗って飲んでいると、あとで分からなくなる。

 ところが、この日本酒は、ついつい飲んでしまった。それほどおいしかった。

 やはり、飲み過ぎて夜中に目を覚ましてしまった。

 その日は、津山で一泊していた。

 ★

 次の15日(土)は、昼から京都の橘大学での「明日の教室」である。

 池田修先生、糸井登先生、私と3人で語ろうという、今回の企画である。

 20分ずつ最初に問題提起をし、それについて見えている方々に質問を2つずつ出してもらい、さらにそれについて答えていくという企画である。

 50人の人たちの熱気がすごいのである。

 この会の熱気にまさる会合に私はあまり出たことがない。

 20人ほどは、教師を目指そうとする学生である。

 それぞれ3人の持ち味を出して迫ったのではないだろうか。

 私が提起したのは、「学級をきちんと成立させていく10ヶ条」「授業をきちんと成立させていく10ヶ条」「授業前準備5ヶ条」である。

 初任の先生の学級経営や授業を後ろで見ながら、まとめていった項目である。

 ★

 1970年前後に大学紛争があり、(これに私は関わった)1980年の初頭に中学校を中心にした校内暴力が起こり、そして1990年の最後にマスコミを賑わした小学校での学級崩壊である。

 私が冒頭に提起した内容である。

 学級崩壊は、90年の最初から静かに進行していた。最初は、力量がない先生のクラスが荒れるという形で始まり、90年の最後には、どの先生でも、その可能性があるという形になった。

 考えてみると、10年ごとに大学→高校・中学→小学校と問題が提起されてきていることになる。

 そうすると、今はどんな形で問題は進行しているのか。

 一つは、小学校の学級崩壊がさらに深刻になる形で進行していると私は考えている。

 どんな形か。

 一つの学校の学級崩壊が1クラスだけだったのが、2クラス、3クラスと進み、

学校全体が騒然とした雰囲気になっていく崩れ方である。

 実は、「明日の教室」に見えていた方で、私の知り合いの学校は、6年生の担任2人が入院し、5年生の1人が先ほど入院されたと聞いた。

 もうこの学校は、学校としての教育という形を実現できない状態に追いやられているのだと思う。

 ★

 危機を煽っていると考えられるかもしれない。

 「明日の教室」に見えている方は、大阪の方が大勢いる。

 私は、あえて「大阪が一番心配だ」と、懇親会などで話し回った。

 大阪の方、ごめんなさい。

 大阪の中学校の校長先生も見えていた。

 校長先生自ら、困難な事態を切り開こうとされているのである。

 なぜ、大阪なのか。

 今、教育界で一番危ないのが、大阪だと私は思っている。

 全国学力テストの最下位グループだということなのか。

 これもある。

 それよりも「大阪の子どもたちの生活の様子(公立小・中学校)ー児童・生徒質問紙調査より」(ホームページに載せられている)の結果に注目した。

 ほとんど全てが全国を下回るのである。

 全国を上回るのは、「就学援助を受けている」「補充的な学習サポート」などである。

 そして、「授業研究を伴う校内研修の実施回数」も下回っている。

 子どもたちの生活の実態はめちゃくちゃになっているのに、先生達は、その状況に立ち向かっていないのではないかという恐れが見えてくる。

 おそらく、大変な事態が大阪では進んでいるのだと、私は思っている。

 ★

 43年前の学力テストでは、大阪は、トップグループ争いをしていた。

 日本の教育の最先端を進み、民間教育サークルのメッカであった。

 私の若い頃は、大阪の教育にあこがれを持っていた。

 70年代の頃だ。

 それから40年ばかり、一体大阪はどうなってしまったのだろうか。

 橋元知事のもとで進められている施策は、住民の圧倒的な支持があるという。

 しかし、教師達のモチベーションはあがらない。

 給料は、ものすごくカットされ、子供たちの状況は大変である。

 呆然と路頭に迷う教師達の姿が、目に浮かぶ。

 それでも、「明日の教室」に来られていた先生達は、闘おうとされている。

 私は、少しの灯りを見つけたような思いになった。

 ★

 辛いときにはどうするか。プラスの状況が見えない時、どうするか。

 へこむんじゃないですよ。凌ぐのである。

 吉本隆明は、そのような時のことを言っている。

「何もできないなら、しのげばいい。そのうちに何か起こるし、起きなければしのぎきったってことですよ」

  

 

 

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学級崩壊の始まり

  再任用された初任研担当の先生達は、月に一度教文センターに集められ、さまざまな話し合いに参加することになっている。

 昨日は、その集まりであった。4人一組で担当している初任者の現状を話し合った。

 一人の先生の話に注目した。

 4年の初任の女の先生のことである。

 その学校は、3クラス。前年度の3年生では、2クラスが学級崩壊をしていて、今年度は、1組には、厳しい指導をされる学年主任の女性の先生、2組は、教務主任の先生、そして3組が初任の先生となる。

 その初任の先生は、最初から厳しい指導で子どもたちに立ち向かった。

 4年生全体での合い言葉ではなかっただろうか。

 1ヶ月は、きちんとしていたという。

 崩れ始めたのは、5月の連休明け頃からだ。

 おしゃべりがひどくなり、特にきかないのは男の子達である。

 その初任の先生が、その時どなり、その一瞬は静かになるが、また平気でおしゃべりが始まるということを現在続けている状態らしい。

 専科の音楽も、手がつけられない状態になっている。

 ところが、他の二組は、きちんと指導されていて、今でもきちんと成立している状態らしい。

 私は、1ヶ月はきちんとしていたというところに注目した。そして、それが一気に崩れていったところにも、注目したのである。

 ★

 グループごとに話されている内容は、私たちと同じように初任者が四苦八苦して学級経営にあたっている様子である。

 最後のまとめで、「初任者のクラスだけではないのです。その他のクラスも騒然としていて、とても初任者に配慮できる状態ではない。もう自分のクラスで精一杯なのです」と話す先生がいて、どっと笑いが起こった。

 学校の他の先生達が、初任者に気を配る余裕を失っているのである。

 私は、初任の先生達が孤軍奮闘して、一人であくせくしている様子に苦虫をつぶす思いで聞き入っていた。

 ★

 1ヶ月はクラスはきちんとしていたという初任の先生。それが一気に崩れていった様子が目に浮かぶようであった。

 何が問題であったのだろうか。

 私には、とりあえず2つの問題があるのだと思った。

 1つは、無理をしたのではないかということである。自分のキャラクターを顧みずに、がんがんと子どもたちに立ち向かっていったこと。いわゆる「縦糸を張ること」に邁進したのであろうが、無理をしている分、子どもたちにはすぐに見え透いていく。

 「あの先生、ぼくたちにがんがん怒るけど、それだけだぜ、全然怖くないぜ、その証拠に何にもできないよ」という子どものささやき声が聞こえてくる気がする。

 私は、この1ヶ月がんがん怒ったり、叱ったりしたことはない。意識的にしない。ただ、しっかりと「縦糸を張り続ける」のだ。指示したことは、がんとしてさせる。できなければ、何度でもやり直させる。

 その間に、盛んに怖い話や汚い話やおもしろい話をしたり、笑わせたりして、どんどん子どもを惹きつける。

 クラスの8割を早々と味方に引き入れる手続きをとっているのである。

 2つめは、一人一人と通じ合うことをやっていなかったのだと思う。

 この点は、担当の先生も認めておられた。

 でも、先生は、「通じ合おうとしても、そのやり方が分からなかったのだと思います」と言われていた。

 「縦糸を張っていく」ことは、確かにまず優先してやらなくてはならないことだが、その間に「横糸」もきちんと張らなくてはならない。

 ここが不足していたのだと思う。

 でも、初任の先生は、今でも一生懸命にクラスにしがみついて、なおもがんばりぬこうとしているらしい。

 とにかく、とにかく1年間、凌いでほしいと願うばかりだ。

 ★

 ブラッシュ・アップという手作りの雑誌がある。そこに、横藤雅人先生が「崩壊学級立て直しの記」を連載されている。

 注目すべき連載である。

 その中に、「崩壊の始まりは、おしゃべりや授業への遅刻といった小さなことから始まる。そこをきちんと治めていけば、集団はまとまっていくし、治めることにしっぱいするとばらけていく」と書かれてある。

 そして、崩壊していったクラスの4月の風景が書かれてある。

「授業中、離れた席の子供たちが、やや大きな声でおしゃべりをしている。担任が、『うるさいです。』と注意をすると、ちらりと担任の方を見て、友達同士目で笑い合って口をつぐんだ。

 担任が授業を再開する。すぐにおしゃべりも再開される。また注意を与える。

 『さっきも言いました。おしゃべりはやめてください。』

 また口をつぐむ。教師が、少し間を取って、おしゃべり再開がないことを確認する。間の悪さに、件の子供たちが、目配せして少し笑う。

 授業が再開する。またおしゃべりが始まる。今度は、別のところでもおしゃべりが始まった」

 横藤先生は、この数分のやりとりを見て、私は、「これはすでに崩壊がはじまっている」と思ったと書かれてある。

 私も、このような場面を見たら、そう思うだろう。

 上記にあげた初任の先生の静かだったという1ヶ月も、このようなやりとりが何度もあったのだと思われる。

 そして、一気に崩れていったのである。

 ★

 おそらくどこのクラスでも展開されるであろう、おしゃべり。

 また、「先生、消しゴム忘れました。どうしたらいいですか」「先生、これはしまっていいのですか」「先生、ノートを忘れました。どうしたらいいですか」……と何でも声に出して聞きまくってくる「先生コール」。

 自分で思ったこと、考えたこと、感じたことをすぐぺらぺらと声に出してしまう男の子たち。

 これが、おそらく学級崩壊の始まりである。

 これにきちんとした対抗手段をもたない限り、崩壊を阻止できない。

 

 

 

 

 

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頂からの、その降り方

   5億円詐欺容疑による小室哲哉の逮捕劇。

 絶頂を極めた金満生活から一転、金策に走り回る近年の窮乏生活が、さまざまな週刊誌で取り上げられている。

 96年から2年連続で高額納税者番付4位にランクイン。「100億円以上の金を持っていた」「LAの豪邸から自家用ジェットで東京のスタジオまで通っていた」などという話が伝えられる。

 小室自身も、絶頂期を振り返り「銀行の通帳は10ケタまで表示されないので、途中から分からなくなりました」と笑って答えていたと言う。

 「金の匂いをかぎつけて銀バエのように群がる連中も多かった。スタッフを引き連れてのラスベガス旅行ではカジノの軍資金まで振る舞うお大尽ぶりでした。また最初の妻と離婚後、華原朋美をはじめプロデュースした歌手らに片っ端から手をつけるなど女グセも乱れていた」(芸能関係者)

 母校の早実にも10億円を寄付し「小室哲哉記念ホール」を建てさせた。

 つまづきは、頂点を極めた直後から始まった。99年以降、CDの売り上げは急降下、メディア王のマードックと組んで100万ドルを出資した海外事業が70億円の損失を出して大コケ、01年からの吉本興業と契約したが、これも失敗した。

 さらに追い打ちをかけるように,01年に結婚、1年後に離婚した歌手の吉田麻美への7億円もの慰謝料がズシンとのしかかった。一括で払う能力がなく、04年から滞っていた。

 「最近は金策に走り回り、食うに事欠くようなありさまで奥さんと2人でファストフードを食べたり、カップラーメンをすする生活だったといいます」(芸能関係者)

 日刊ゲンダイ2008年11月4日掲載の内容である。

 

 最近のトップニュースの内容をまとめてみると、こういうことだ。

 天国と地獄を短い間に走り抜けたと形容できる生き方である。

 少なくとも、90年代の日本の音楽を引っ張った「時代の寵児」であったことは確実である。

 彼の音楽には馴染みがなかった私でさえ、2,3曲ぐらいすぐに思い出すことができる。それくらいに彼が音楽界に残した業績は偉大だったはずである。

 「ルーズな金銭感覚とふしだらな生活」と非難することは簡単だが(その通りだから仕方ないのだが)、あまりにも無残である。

 もう少しの時が経過すると、小室哲哉という存在さえも忘れ去られていく。

 私も一緒に歩き去ればいいのだが、何かがひっかかる。

 それは何なのだろうか……。

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 思いだして、沢木耕太郎の「王の闇」(文春文庫)を引っ張り出してくる。

 「ライバルを倒し、記録に挑み、ひたすら戦い続けることで王座を手にした男たちも、やがてはその頂点から降りざるをえない時がやってくる。彼らの呻き、喘ぎ、呟き、そして沈黙が、今ふたたび『敗れざる者たち』の世界に反響する。久方ぶりに沢木耕太郎が贈る、勝負にまつわる男たちを描いた五つの短編」

と紹介がある本である。

 沢木は、あとがきでこう書いている。

「たとえ、それが日本アルプスの三千メートル級の山であろうと、ヒマラヤの八千メートル級の山であろうと、ひとたび山の頂に登ったあとは誰しもそこから降りていかなくてはならない。そして、その降り方は、登り方と同じく多様である。滑るように降りていく者もいれば、ゆっくり雪を踏みしめながら降りていく者もいる。頂から頂へと飛び移るようにして下降していく者もいれば、雪崩に巻き込まれて転落してしまう者もいるだろう。私が心を動かしたのは、頂からの、その降り方だった」

 小室も、頂に登り詰めていた。

 頂から頂へ飛び移るように降りていこうとしたのだろうか。

 いやいや、きっと頂からの降り方を想定していなかったと思う。

 私は、その頂からの降り方を「帰路」として考えてきたのだと思う。

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 土曜日の朝の小室のニュースを見ながら、しばし女房との会話。

「小室は、きっと帰路を考えていなかったんだよ。そう思うね」

「小室はそうだろうけど、普通の人たちにとっては、帰路なんてないよ。一日一日を平凡に生きていくのだから」

「そうかな?誰にも自分の人生を生きるというのは『往路』と『帰路』があると思うんだけど……」

「普通の人は、そんなことなんか考えないよ」

 それで話は終わった。

 そして、女房はゴミ出しに行った。私は、インコの餌をかえた。

    

 

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後ろから見ていて、見えてきたもの

  担任教師は、前から子どもたちを見ながら授業をしている。当たり前である。

 しかし、後ろから子どもたちを見ていたら、何が見えるのだろうか。

 私は、8ヶ月の間初任研担当として主に後ろから子どもたちを見てきたことになる。

 こんなに長い間、後ろから子どもたちを見てきたことなんてない。

 何か変わりがあるか。

 あるのである。

 前からは見えないものが見えてくる。

 1年生の教室で、最近ふと気づいたことがある。

 上履きを脱いで、授業を受けている子どもが多いのである。

 1時間目、脱いでいる子どもを探してみた。8人いた。

 40人のうちの8人であるので、多いのか少ないのか分からないが、とにかく気になった。

 担任の先生と打ち合わせてみたら、2人は分かっていたが、そんなに多いとは気づかなかったということだった。

 女の子達が結構多いのには驚いた。

 上履きを脱いでもいいじゃないかという考えもある。

 窮屈だから、脱いでほっとするということも分かる。

 8人の子どもたちの様子をよく見ていると、上履きを脱いでいる状態の時は、机で休んでいる状態や先生の話を聞いていない状態が多いということが分かる。

 2人の男の子は、ずっと脱いでいた。1人の男の子は、よく見ると靴のかかとが大きくて1センチぐらい間が空いていた。

「お母さんに言って、もっと小さい靴を買ってもらうんだよ。いいね」

と伝えておいた。担任の先生にも、電話して確認した方がいいねと伝えておいた。

 最近、この子は、手いたずらが多くて、ちょっとマークしなくてはいけない子どもだったからだ。

 もう1人の子どもは、休み時間も上履きをちゃんと履いていなかった。踏みつけていつも履いているので、かかとが原型をとどめていない状態であった。

 落ち着きがなく、クラスでは一番先生の手を焼かせている。授業中も、きちんとなかなか話が聞けないのである。

 そうか、そうかと思った。

 上履きを履いているか、いないか。そういうところから見てきたことはないなと思った。

 担任の先生と相談して、一番落ち着きがない子どもの上履きを親と相談して、新しい上履きと替えてもらうようにしたらどうだろう、新しい上履きにしたら、今度はきちんと履いているかどうかの一点で強く指導をしてみたらどうだろう、と打ち合わせをしてみたのであった。

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 しばしば、森信三先生の「一語千鈞」を引用して申し訳ないが、先生の言葉に次のことがある。

 学校の再建はまず紙屑を拾うことから-。

 次にはクツ箱のクツのかかとが揃うように。

 真の教育は、こうした眼前の瑣事からスタートすることを知らねば、

         一校主宰者たる資格なし。

  私の親しい校長先生は、クツ箱のクツのかかとが揃うことを全校規模でやっておられる。

 すごいことだと感心したことがある。

 私は、森信三先生の影響から、靴箱や靴に注目することができるようになった。

 この影響がなかったら、教室の後ろから子どもたちを見ていても、きっと上履きに注目しなかったかもしれない。

 私たちは、見ていても見えないものはあるのである。

 

 

 

 

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24時間の日常を大切に生きるということ

   湯河原に行った。温泉宿である。私は、今年になって、ここへ来るのは4回目。安くて、魚料理でもてなしてくれるのがいい。

 今回は、旅行仲間4人。私たちは、もう長いこと4人で旅行をしてきた。「普通のところではなく、できるだけ辺境の地にいこう」ということで、屋久島や沖縄などへ出かけた。

 4人は、67歳、66歳、61歳、59歳。職種もそれぞれ違う。しかし、妙に気があって、旅行を続けてきた。

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 3時頃に宿へ入り、それから焼酎、ビール、日本酒、ウィスキーとさまざまな飲み物で延々と話し続けた。その間に、屋上の露天風呂へ入り、またまた話し続ける。

 いつもは8時、9時に寝る人たちが、12時近くまで延々と話し込むのである。

 話題は多岐にわたる。それこそ世界状況から細々としたことまで。

 例えば、吉永小百合さんの話題である。いずれも私たちは、サユリストなのである。

 「いつもまでも小百合さんが美しいのはなぜなんだろうか」

 「大半の女の人は、ひどいもんだぜ。あんなに若い頃には美しかったのに、年取ったら……」

 「小百合さんは、どうしていつまでもあんなんだろう?」

 「そりゃあ、金に心配がないから、自分を磨くだけに専念すればいいからああだろうよ」

 みんな酔っているから、ひどいことを平気で言う。とりあえず、自分のことはさておいて語る。

 私は、「違う、違う」と思う。

 「小百合さんは、24時間の日常を大切に生きているからなんだ。テレビとかで見せてくれる姿は、25時間目の姿だよ。大半の人は、24時間の日常をそれなりに生きているから、みんな年相応の姿になっていく。でも、小百合さんは、24時間の日常をしっかり生きているから、いつまでも美しさを見せている」

 何か、いつも小百合さんのそばにいるような話ぶりである。酔ってはいても、真面目に答えているのである。

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 先日、清水真砂子さんの話を聞くことができた。

 勤務校での講演会である。清水さんと言えば、ゲド戦記の訳者で有名な人である。勤務校の保護者に清水さんと親しい人がいて、このような機会が持てたということであった。児童文学の世界で、清水さんが残してきた仕事は、大変なものであると私は評価する一人である。

 校長から清水さんを紹介していただき、「私は、『幸福に驚く力』を読んで感激しました」と伝えた。

 清水さんの話も、とてもよかったが、何よりも67歳と言われる清水さんの上品な美しさに惹かれた。

 このときも思った。

「24時間の日常を大切に生きておられるのだろうなあ。だからこそ25時間目の仕事があんなに輝いているのであろう」と。

 上越大学の赤坂真二さんが、ブログの中で、養老孟司さんが雑誌に書いていたことを紹介していた。

「日常がダメならば全てダメ」

という言葉である。厳しい言葉だが、その通りだと思う。

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 旅行仲間の旅行も、Sさんの退職記念の旅行を最後に一応の終わりである。

 区切りもきちんとしなくてはならない。

 どんな旅も、必ず終わりがくる。そして、24時間の日常へ戻っていく。

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