コメントに答えて

 次のようなコメントがブログに寄せられました。
 いつもブログありがとうございます。

★ ★ ★
 コメント失礼します。もう5,6年ブログを拝読しています。いつも勉強させていただいております。ありがとうございます。たしかに、「学級がしんどい」ことが大きな負担になっていると思うのですが、一番は「職員室がしんどい」ことが一番大きいのでは無いかと私は思います。これは私の経験ですが、どんなに学校、学級、子どもが大変でも、職員室が良い雰囲気であれば、充実した仕事が送れます。しかし、どんなに学級が良くても、職員室がしんどければ、負担が大きくなると思います。若手育成、初任者育成と言われますが、一番しないといけないことは、中堅、ベテラン、管理職育成ではないかと私は考えています。(もちろんどちらも大切だと思います・・・)仕事を送る日々の中で常日頃考えていることだったので、コメントさせていただきました。よろしければ野中先生の考えも伺いたいです。 お忙しいところ申し訳ございませんが、お願いいたします。
★ ★ ★

 まさに言われるとおり、私も同感です。
 きっとコメントの先生も、学校現場にいるベテランたちの有り様にうんざりしたり、怒りを感じたりしているのだろうと想像できます。

 中堅、ベテラン、管理職育成が、ほんとうは最も大事です。
 これらの先生たちが、もっと職場でがんばってくれれば、学校は豊かになります。
 でも、これが最もむずかしい課題です。
 
 私が今まで関わった教育委員会も、その育成について必要感を痛感しておりました。
 でも、効果を考えれば二の足を踏むわけです。
 もはや、これらの先生たちの多くは、変われないのですから。
 育成の研修会など行っても、効果はありません。

 まず、それらの先生たちが、学校で若手を引っ張っていく模範を示せなくなっているのです。
 今ベテランの先生たち(しかも今まで力量があると言われてきた先生たち)のクラスが、軒並みに学級崩壊を引き起こしています。
 だから、自分のクラスだけでも精一杯。

 神戸市での若手いじめ事件がありました。
 これは、学校の職員室が抱えている問題の氷山の一角を示したもので、学校はあのように崩れていっているわけです。

 今、学校の職場で起こっていることは、次のようなことだと思われます。

 ①守旧派(今までの学校の体制を支えてきた先生たち)の先生たちが
  中心になり、今までの体制を守ろうとして、良く変えようとする若
  手の意見を潰している。
 ②ともすれば、若手がいじめの対象になる。
 ③学年がまとまるための学年会が機能しなくなっている。
 
 見聞きしたことです。
 もちろん、こんな学校ばかりではありません(必死になってがんばっている中堅やベテランの先生もいる)が、どんどん学校の職員室が、暗く、過ごしにくい場所に変わっていっているのです。

 このコメントの先生と、同じ視点で上越教育大学の西川純先生が、フェイスブックに次のように書かれています(ブログに書きましたが)。

 ★ ★ ★

 (中略)
 どんな新人教師も、失敗します。そして、失敗します。そして、失敗します。そして・・・・・・。私もそうでした。皆さんもそうでしょう。では、我々は何故、それを乗り越えて辞めなかったか?それは先輩教師に守ってもらえたからです。先輩から「私も同じような失敗をしたよ」と言われ、フォローしてもらったからです。
 では、今、若い教師が辞めるのは何故でしょうか?それは職員室の教育力が低下しているのです。中堅、ベテランが忙しすぎて若手をフォローする余裕を失っているのです。
 辞めないためには何が必要か?それは、年長者に可愛がられる能力なのです。
★ ★ ★

 職員室での同僚性がなくなり、また教育力もなくなっています。
 だから、初任者がどんどん辞めていくわけです。
 
 暗い話ばかりになりました。
 コメントの先生の相談にならなかったかもしれません。

 せめて、これからの若手の先生たちに期待するしかないわけです。
 今、若手の先生たちに何ができるのか。

 もうすでに現場を去って何年も経っている私に、今の学校現場の空気を感じることができません。
 しかし、はっきりしていることは、自分の足元をしっかりとすることでしょう。自分の教室を豊かにしていくことです。
ここをいい加減にして、これからは成り立ちません。

 これから学級崩壊が数多く起こります。
 教育行政も、教育委員会も、これへの手立ては持っておりません。
 学校現場が、立ち向かうしかすべはありません。
 ぜひ、がんばっていただきたいと願っています。

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つれづれなるままに~親しい友人が亡くなる~

●私の健康を支えているのは、両手振り体操である。
 
 https://www.givegive.co.jp/hpgen/HPB/entries/48.html

 毎日、3回(朝昼夕)10分ずつ行う。
 玄関先で行う。
 ただ、手を振るだけでは暇なので、目の健康のために遠くを見ながら行う。
 ついでに舌をぺろぺろ出しながら行っている(笑)。
 人がこの様子を見たら、ちょっと異様な感じだろうなと思いつつ、やっている。
 舌を出すのは、舌を鍛えて誤嚥性肺炎を防ぐためである(ほんとにそうなるのか分からないが……)。
 
 最近、両手を振っている間に、空を通過する飛行機が気になりだした。
 横浜の上空は、飛行機の往来が激しい。
 青空だらけの中で、1機の飛行機を見つけて、それを追尾する。
 これが快感である。なんとも楽しくなる。
 10分間の腕振りは、まったく飽きることなく終わるわけである。

 趣味は何ですかと言われたら、けん玉、数独、そして最近では飛行機の追尾ということになる。
「ほんとに変わった人ね!」と女房には言われる(笑)。
 
●上越教育大学の西川純先生がフェイスブックに次のように書かれている。
初任者が辞めていくことについてである。

 ★ ★ ★ 
教員養成系学部、大学では懸命に教育しています。しかし、それは入り口の入り口しかできません。考えてみてください。掲示物の掲示の方法を大学で教えてもらった方はいますか?少ないと思います。でも、大事ですよね。でも、そのレベルのことを教えていたとしたら、教員養成は数十年でも無理です。
 どんな新人教師も、失敗します。そして、失敗します。そして、失敗します。そして・・・・・・。私もそうでした。皆さんもそうでしょう。では、我々は何故、それを乗り越えて辞めなかったか?それは先輩教師に守ってもらえたからです。先輩から「私も同じような失敗をしたよ」と言われ、フォローしてもらったからです。
 では、今、若い教師が辞めるのは何故でしょうか?それは職員室の教育力が低下しているのです。中堅、ベテランが忙しすぎて若手をフォローする余裕を失っているのです。
 辞めないためには何が必要か?それは、年長者に可愛がられる能力なのです。
 ★ ★ ★

 ほんとにそうだと同感する。

 
●親しい知り合いの旅行仲間の一人が亡くなるという一報を受ける。
 びっくりする。言葉を失う。事故なのである。

 今回のコロナ禍で久しく連絡をしていなかったが、久しぶりの連絡が、こんなことになってしまった。

 私と同世代。72歳だったのである。事務職の先生。
 数年間、九州を中心に最果ての地を旅行して回った。
 ともに素晴らしい思い出である。

 昨年、電話をしたら、声がかすれていて「どうしたの?」「いやいや人と話さないものだからかすれているんだよ」と返ってきて、思い立って旅行仲間で忘年会をやった。12月21日のこと。
 これが今生の別れになった。

 今日は、ベートーベンの「告別」の曲を聴きながら、彼を送っている。 

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先生方がしんどくなっている!

 
 先生方が、しんどくなっている。
確かに、確かに、その通りなのだ。
 多賀 一郎先生が、フェイスブックで次のように書かれている。
まさに、私も同感である。

 ★ ★ ★.
先生方、しんどくなっている。
苦しくなっている。
「若手のための小部屋」で
吐き出そうと誘ったら
たくさん反応があった。
✳️子どもとの状態が苦しくなってきた
✳️管理職からディスられる
✳️どうも疲れが溜まってきてとれない
等々。
今年度は、ロケットスタートができなかった。
子どもたちとの関係づくり、
子ども同士の関係づくり、
そういうものが根本的に作れていない。
マスクをつけたままの指導には
限界がある。
そして、ただでさえブラックだと揶揄される
学校で、仕事が増えている。
大勢での飲み会も憚られる。
リモートでそんなものが
全て解消できるわけもない。
先生方、今年は何ができてなくても
仕方ないと思おうよ。
どんな状況になってもなんとかすることは
できる人はいるかも知れないが
スーパーティーチャーでもない限り、
なかなか難しいものだ。
できないことに思いを致すことより
今できることだけに絞って
やっていこう。
 ★ ★ ★

 まことにその通り。
 先日も、ある区の初任者指導の録画をとったのだが、指導主事の先生の話では、9月の時点でかなりの初任者が辞めているということであった。

 休校、分散登校などきわめて異例な事態にあった初任者が、耐えられなかったのである。

 多賀先生が言われているように、「今できることだけに絞ってやっていこう」ということである。
 
 できることは何か。
 先生たちによって、さまざまであろう。
 私は、授業やさまざまな活動に「スピード・テンポ」をつけることだと思っている。
 
学級が落ち着かなくなり、荒れてくると、必ず出てくる現象は、学級に「スピード感」がなくなることである。100%そうなる。
 全体がだらだらする。

 これは、担任も、生み出している。
 授業時間を守らない。
 空白の時間が多い。
 時間にルーズである。
 …………

 これを改めて、時間をきちんと守り、すべての活動にスピード・テンポをつけることである。
 子供たちは、ゲームなどでスピード感に浸されている。
 そのため、だらだらとした活動は、体が不快感に陥る。
 だから、担任のだらだらした授業や活動は、体が不快感を感じ、逆にだらだらとした表現をしてしまう。

 できることは、スピード・テンポをつけることなのである。

 朝の会を10分以内で終わる。
 終わりの会は、7,8分で終わる。絶対に長くしない。
 そのために、プログラムを削る。
 授業はきちんと時間を守る。
 給食時間、掃除時間も時間内に終わるように工夫する。

 これだけでも、学級にスピード・テンポが出てくる。  

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何で数学を勉強するのか?(2)~算数は基礎トレ~

 「味噌汁・ご飯」授業として算数をいろいろと検討していると、思わぬことに気づかされてきた。
 それまで、算数については、毎日のように授業をしてきたが、本格的に勉強をしたことがなかった。
 退職してやっと勉強をし始めたことになる(あまりにも遅すぎる<笑>)。

 まず、算数と数学の違いから勉強を始めたわけである。
 これについては、冒頭のような結果に気づかされた。

 算数は、「思考力」をつける云々が強調されているが、そんなことが目標ではないんだ!
 いかに日常的な計算力をつけていくかが大きな目標。
 これは東大の西成先生の言われるとおり。

 だから、算数が大きな目標とするのは、2つ。

 ①いろいろな公式や解法を覚えて使えるようにすること。
 ②定義を暗記して、それが使える練習をすること。

 こんなことだったのである。
 算数では、教えることはきちんと教えて、身につけさせ、そして、ほんとの勝負の場である「数学」へ向かわせなければならないという課題があったのである。
 数学で、本格的に「論理的思考力」を追究するわけである。
 算数で教科書を使い、きちんと基礎的なことを教え、数学で思考力を身につけさせようというつながりである。

 そう考えていけば、さまざまに出されている算数本とは、これは何なのだろうか、「思考力、思考力」と叫んでいる授業とは、何なのだろうか、と。

 ★
 このつながりをはっきりと書いてくれた本がある。
 『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』(小学館)の本。
 細野真宏先生というのは、受験数学で名をはせた人である。

 ★ ★ ★
 小学校の算数というのは、いわゆる「基礎トレーニング」なのです。
 例えば、部活において野球部に入ったら、いきなりゲームを楽しめるわけではなくて、まずは最低限必要な基礎体力を身に付けるために、走ったり腹筋運動をしたりと「基礎トレ」をしなければなりません。そして、さらに素振りやキャッチボールなどの基礎的な練習をしっかりとこなします。
 そして、それらを十分にこなした後で、やっと楽しいゲームにたどり着くことができるのです。
 ★ ★ ★

 算数は、「基礎トレ」であるという考え方。
 細野先生は、小学校の段階で「基礎トレ」をきちんとやっておかなければ、「数学の楽しさ」を味わうことができないばかりか、実生活で生きていく上での強力な武器になる「数学的思考力」を訓練するチャンスさえも逃していくのだと、強調されている。

 算数の目標は、はっきりしているのである。
 
 ★
 私は、今7人の先生たちと「算数学力向上メソッド」を使った共同研究をやっている。

 大きな目標の1つが、低学力児を引き上げていくこと。
 テストの点数で50点以下を毎回取っている子供たちを、60点、70点、80点にしていく試みである。
 点数が上がらなければ、低学力児は、算数が好きになれない。
 点数が上がってくると、算数に対する意欲や自信がついてくるのである。

 この「基礎トレ」をやって、中学校の数学へつなげていきたいと願っているのである。

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なんで数学を勉強するのか?(1)~チコちゃんに叱られる~

 なんで数学を勉強するの?
 この課題がNHKのチコちゃんの番組に出ていた。

 この課題は、「味噌汁・ご飯」授業で算数本を出版するときに明らかにしている。

 講座でも、先生たちに「算数と数学の違いは何ですか?」と問いかけて、明快な答えが返ってきたことはない。
多くの先生は、そんなことは考えたことがないというのが普通である。

 数学で、一次方程式とか、因数分解とか、三角関数とかが、日常の生活で使われたという経験は誰でもがない。
 だから、そんな日頃の生活で使わないものを勉強する必要があるのかと考えがちである。
 
 東京大学先端科学技術研究センター教授の西成先生は、そのことについて明快な答えを出されていた。
算数と数学の違いは、学ぶ目的が違う。だから、名前も違っている。

 「数学は、論理的思考力を身につけること。
  算数は、日常生活で使う計算力を養うこと。」

 私たちは、算数本の中で、次のように書いている。

 「算数は、実生活で使えるツールを身につけさせることを大きな目標
 にしています。」

 「数学は、『数学』という学問を通して論理的に考える力を身につけることが大きな目標になります。だから、実生活でほとんど使わない抽象的な数字や形が対象になります。」

 西成先生が言われたこととまったく同じ趣旨である。

 数学の論理的思考力を身につけることは、自分の言っていることを相手に伝えるためにはぜひとも必要な力になると西成先生は強調されていた。
 ★
 問題解決学習をやっている先生(問とする)と、「味噌汁・ご飯」授業で算数をやっている私と、次のようなやりとりをしたことがある。
 
問 「味噌汁・ご飯」授業は、教科書通りの授業で、ちっとも思考する場面がないのですが、それでは思考力は身につかないのではないです
か?
  問題解決学習では、最初の例題で「自立解決」をさせてじっくりと思考力をつけさせます。

私 それで思考力がついたかどうか、何で判断するのですか?

問 それは、……、「自立解決」のところでどれだけ子供たちが真剣に問題を解いているかどうかの状態とか、自立解決しての、子供たち
の 考えがどのように出されてくるかが目安になります。子供たちが算数に対してどのくらい意欲的になっているかどうかも大きな目安で
す。
とにかく、考える時間をたっぷり取るようにしているのです。

私 それで子供たちに、本当に思考力がついていると言えるのでしょうか。
  私たちは、思考力は問題を解く過程の中で養われてくるという考え方です。だから、最初の例題で、きちんと解き方を身
  につけて、類題、練習問題を解かせながら思考力をつけようという考え方です。
 そして、その結果の単元テストで「知識・技能」は、どの程度身についたのか、「思考・判断・表現」はどの程度身についたかどうかを判
  断します。
問題解決学習では、単元テストの結果はどう判断されているのですか?

問 もちろん、テストの結果も判断しますが、大切なのは、「自立解決」でたっぷり考える時間を取るということが最も大切なのです。

 話は平行線のようになっている。
 算数は絶対に思考力をつけなければならない、そのためには「自立解決」が絶対必要であると主張する先生と、教科書通りで教えて、その単元の学力がどの程度身についたのかどうかは単元テストで判断しようという私との違いである。

 私は、「自立解決」で考えさせている時間をとっていることが、思考力がついていることにつながっているとは思っていない。
 考える時間をとれば、即考える力がつくと思っていることは、あまりにも、短絡的な考え方だと考えている。
 
  考える時間を取る→考える力ができる

 こんな簡単な筋道で、思考力は身につかない。考える時間さえ保障すれば、考える力がつくなんていうことはありえない。
 そんなことは、考えてみるとすぐに分かることではないか。
 とにかく、科学的ではない。

 実際に思考力がついているかどうかは、きちんと客観的にテストをして結果を出していかなければ、教師の主観的な判断だけで決められることではない。
 ★
 具体的に、ここにその結果がある(詳しくは書けないが……)。
 5年生のある単元(むずかしい単元である)で、問題解決学習で授業をされた先生(学級経営が上手で、授業も上手な先生である)のクラスと、「味噌汁・ご飯」授業で授業をしたクラスの結果である。

 ○み(「味噌汁・ご飯」授業)のクラスと、問のクラスとのクラス平均
 の違いは、「知識・技能」では17.2、「思考・判断・表現」では、
 7.57の差。2つとも、「み」の方が良い。
 知識・技能は、これだけの差ができている。

 ○点数別で見る。
 100~90…………問「知識」→8人、「思考」→9人
              み「知識」→15人、「思考」→9人

50~0  ………… 問「知識」→5人 「思考」→8人
              み「知識」→1人 「思考」→2人

思考力をつけることを主眼においた問題解決学習のクラスは、「味噌汁・ご飯」授業のクラスより思考力の差は、7.52も開いている。
50点以下の子供たちは、問のクラスは、思考力の問題で、8人もいる。「み」のクラスは2人に過ぎない。

 ○問のクラスは、0点から20点までの子供が3人いる。
これらの子供は、まったく学習についていけないはずである。
「自立解決」の時間は、ほとんど何も考えられない無為な時間になっているはずである。

○この結果は、授業上手な先生のクラスのことなのである。
ましてや、普通に問題解決学習をやっている先生のクラスや、初任者のクラスなどがどうなっているのか、もう明らかではないだろうか。


 私は、今まで問題解決学習について、低学力児を引き上げるような授業をすることができないと主張してきた。
 しかし、以上のような結果を見れば、思考力もつけることはできないと言っていいことになる。
(つづく)

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叱りは夕立のごとく!~子供たちとの関わりをどうするか~

 現在、初任者研修の録画どりのパワーポイントを作成している。
 
 初任者の先生たちの今の悩みは、子供たちとの「関係づくり」なのであろう。
 子供たちと、どのように関わったらいいのかということになる。

 まず第1に、「叱ること」についての悩みがある。
 
 「叱れない」というのは、教師としては続けられないと思った方がいい。

 学校教育法第11条にも、次のように書いて「叱る」(懲戒という言葉だが)ということを定めている。
 
 「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」
 
 教育上「叱る」(懲戒)必要があるので、このように法律で定めているのである。
 
 「叱らない」というのは、1学期の当初は、あったかもしれないが、通用するはずがない。
 私は、「仲良し友だち先生」と言って、やってはいけない先生として主張している。
 
 それでも今は、「しょっちゅう叱っています。」というのが多いのではないだろうか。
 
 ただ、叱ることにも、原則がある。

 ①叱るのは、原則として全体に行う。個々の子供には努めて優しくする。

 ②叱りは、夕立の如く行う。
だらだらといつまでも叱らない。
どこで終わったらいいか分からないで、だらだらなる先生は、自分から終了宣言をしたらいい。「終わりっ!」と。

 ③叱り中毒にはならない。
  叱るときは、脳にドーパミンが出てくるという。
  快楽物質。
  だから、叱ることは快楽なのである。しょっちゅう叱っている先生は、  中毒になる。止められなくなる。

 学級崩壊の調査をしたときに、崩壊になっている先生たちのほとんどが、
「しょっちゅう叱っている」という特徴があった。
 これは、もう叱り中毒になってしまっているのである。
 早速改めなくてはならない。

 第2に、発達障害、愛着障害などの子供たちへの対応の悩み。
 どういう対応をしたらいいか、悩みは深い。

 この子供たちにもしょっちゅう叱っているという先生方は多いのである。
 ところが、かえって反発されて、ますます関係がうまくいかなくなっている。
 
 確かに、この子供たちが「うるせえ~」「めんどくせえ~」「うぜえ~」と言い返してきたら、ついつい叱りたくなるのは、気持ち的によく分かる。
 でも、絶対にその土俵に乗ってはいけない。
 
 彼らの反応は、「エ音」が多い。
 最後が「え~~」になる。
 このエ音は、コミュニケーションを遮断する言葉なので、この言葉が返ってきたら、「おまえとは関係をもちたくない!」と言っているのに他ならない。
 だから、それに反応して叱っていったら、ますます関係は悪くなる。ひどい反発が返ってくる。

 こんな場合はどうするか。
 このブログで何度も書いたことがあるが、また繰り返したい。

 何か問題があったときは、まず最初の言葉かけがある。
 
 子供たちとの「関係づくり」には、「言葉」と「表情」しかない。
 その「言葉」になる。

 「包み込み話法」と言っている。
 その子供たちを、どのようにクラスに包み込んでいくのかを考えての話法である。

 ①「ど」のつく言葉で問いかける。
どうしたの? どれどれ? どうですか?

 「Aさんは今どんな調子なの?」とAさんの「事実」を問いかけるのである。

 ②「そ」のつく言葉で返していく。
  ここで、「めんどくせ~」「うるせえ~」などという言葉が返ってきたら、  「そ」のつく言葉で返していくのである。

そうなの? そうなんだ! そうか! そうだよね。

Aさんの「事実」を確認するのである。

 この事態は、ここで収めていく。
 言い返したり、叱っていたりしたら、ますます事態はこじれていく。

 ただ、「包み込み話法」は、これで終わりではない。

 その子たちには、他の場面で、フォロー(ほめたり、認めたり、励ましたりなど)をしなければならない。

 どういうようにフォローするのか。
 3つのことをやれば良い。

 ア 短い言葉で行為をほめる
   SWIM話法ぐらいは日常的に使えるようになってほしい。

S…すごい、すばらしい、さすが、その調子
W…わかる
I…いいね
 M…みごとだね

 イ 名前をつけて特定化する
  「すてきだね、奈々子さん」「ばっちりだよ、一郎君」……

 ウ 達成や成長を伝える
  「できるようになったね」「やったじゃない」…… 

 どうだろうか。
 このように、その子供たちを包み込んでいくのである。

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つれづれなるままに~また横浜へ戻ってきたい~

●子供の幸福度をはかるユニセフ〓国連児童基金の調査結果が出ている。
 日本は、先進国や新興国など38カ国中、20位だった。

 この幸福度調査は、7年前の2013年に31カ国を対象に調査している。このときは、日本は全体の6位であった。
 だから、幸福度は、落ちたということになる。

 体の健康(子供の肥満の割合や死亡率など)の分野では1位となる。
 
学問などの能力をはかる「スキル」では、学問的な習熟度は高いものの社会的な適応力で上位の国におとり、27位。

 一方精神的な幸福度は、37位と沈んでいる。 
 これは、15歳時点での生活の満足度の調査結果や若者の自殺率などから算出した結果である。
 ほとんど最下位になっている。

 上位はどんな国なのか。
 1位がオランダ、2位がデンマーク、3位はノルウェー、そしてスイス、フィンランドと上位を北欧、ヨーロッパ諸国が占めている。

 この調査は、調査項目の少なさが気になるところであるが、日本はますます貧困化しているので、そのしわ寄せが子供たちに行っているのは間違いがないのだろう。

●「また横浜へ戻ってきたい!」
 そう言って、水戸へ行かれた。
 娘さんの家の近くのリハビリ施設に入院し、リハビリに励むそうである。
 91歳なのである。
 隣の家の庭木の剪定をされていて、知り合いになった。
 大変元気だったが、熱中症になられてから、不調続きになった。
 やはり、寝たきりになるとどうしても歩くのがうまくいかなくなる。
 そこで、水戸の病院に行かれたのである。
 
また、横浜に戻ってきたいという言葉を投げかけられたと、隣人に教えてもらった。
どんなに歳をとっても、こういう心構えで生きるのだと教えてもらう。
 ★
 瓢水(ひょうすい)という俳人がいる。
 播磨の豪商だったらしいが、瓢水の風流によって産を失い、晩年はむしろ貧しかったらしい。
 生涯、無欲、無我の人で、逸話に富んでいる。
 その俳人に、次の句がある。

  浜までは海女(あま)も蓑(みの)着る時雨(しぐれ)かな 

 海女は、海まで行けば濡れるのだから、雨が降って濡れたってかまうことはないはず。そう思ってもよいところ、時雨が降ってくれば、我が身をかばい蓑を着る。
 決して、どうせ濡れるのだから、濡れていこうとはならない。
 ★
 この句については逸話がある。
 あるとき、瓢水の高名を慕って旅の僧が訪ねてきた。
 ところが、あいにくの不在。どこへ行かれたかという旅僧の問いに家人が「風邪をこじらせ、その薬を買いに行った」と。
 それを聞いた旅僧は、半ば嘲るかのように、
「さすがの瓢水も命が惜しくなられたか」
 と言い捨てて立ち去った。
 返ってきてこの話を聞いた瓢水は、「浜までは……」の句を紙にしたためると、まだ遠くまでは行っていまい、その僧に渡してきてほしいと使いを出した。
 この句を見た旅僧は己の不明を恥じ、とって返し、瓢水にわびた。
 ★
 瓢水にとっては、薬を買いにいったが、別に命が惜しくなったわけではない。もういい年だが、いよいよとなるまでは、しっかり生きたい。どうせこの年だからと病をほったらかしにしないで、治る努力をするのは恥ずかしいことではないのである。

 そう考えると、この<浜>は、<死>を暗示するように思われる。
 人間はいずれ死ぬ。どうせ死ぬのだから、よく生きる努力など空しいのではないかと考えがちである。
 瓢水は、この考えをたしなめている。
 最後の最後まで、生きる努力をする。
 そのようにこの句は問いかけている。
 ★
 「退職したのだから、あとは余生!」「長生きしたら、周りに迷惑をかけるからあとはテキトウに生きるよ!」「もうこんな年になったんだから、あとはもういいよ!」という言葉を、何度も聞かされてきた。

 瓢水は、このような人生をたしなめる。
 そして、冒頭にあげた91歳の方もまた、決して「テキトウ」な人生を生きていない。
 最後の最後まで生きる努力をされている。 
   
この瓢水の句は、先日亡くなった外山滋比古さんの本から教えてもらったものである。

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危難への対処法とは?

知り合いの先生から相談を受けた。
思わぬ事態になって、どうしていくか悩んでいるということ。

 人生での危難は誰でも、必ず何度か訪れる。
その場合の対処法は知っておかなくてはならない。
  おろおろして、落ち込んでしまったりしてはならない。

<対処法>
 1 まず状況を私見を踏まえずきちんと分析し、その結果起こり
える最悪の事態を箇条書きに書き出す。

2 起こりえる最悪の事態を予測したら、やむをえない場合には
その結果に従う覚悟を決める。

3 これを転機として、最悪の事態を少しでも好転させるように
冷静に対処していく。自分の時間とエネルギーを集中させる
こと。

 「神は対処できない課題は与えない」と言われる。
 試練なのである。
 この対処法は、「道は開ける」の著者のカーネギーに学んだ。

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つれづれなるままに~73歳の誕生日を迎えました~

●家に閉じこもりながら、今年はさまざまな本を読むことができた。
 一番の収穫は、『追いついた近代 消えた近代』(岩波書店 苅谷剛彦著)である。
 大変な分厚さ。
 それでも、今オックスフォード大学にいる苅谷さんが、日本の教育政策がどのような変遷を経て、今日のかたちになっているかを追究した労作である。

 私にとっても、初めて知ることばかりで、読後感は複雑(?)である。
 簡単に、この本をまとめることはできない。

この中で特に印象に残ったのは、次のような言葉。
 ちょっと長くなるが勘弁してほしい。

「教育政策の言説においては、このような空回りがすでに20年以上も続いているというのが筆者の見立てである。」

 「……たしかに、これらは、『上からの教育改革』を印象づける。だが、本章での検討を踏まえれば、それは、(エセ)演繹型思考を通じての『上意下達』による教育改革の実施過程にほかならない。たとえば、学習指導要領で『主体的・対話的で深い学び』と言い換えられた『アクティブ・ラーニング』は、もともと外来のactive lerrningという教育用語を理想的な学び方として、抽象的なレベルで輸入した概念である。それをもとに、それより抽象度を下げた日本語で説明しようとする言説が、先に引用した学習指導要領「解説」部分であった。だが、それを言い換えた『主体的・対話的で深い学び』という日本語も、依然として抽象度の高いレベルでの理解・解釈にとどまる。漠然と、児童生徒が進んで何かを調べたり、それをもとに話しあったり、あるいはそこでの議論の結果を発表する、といった、外形的に見て『受け身』ではない学習を想定しているイメージは伝わる。だが、そこで実際に児童生徒たちの頭のなかで何が行われているのか、外から積極的に見える学習への参加と、そのようには見えない学習とのちがいはどこにあるか。前者では、主体(性)の育成が行われ、後者では行われていないとしてよいのか。それを判断するのは誰で、その判断力はどのようにして育成されるのか。このようなことは、手本となるような授業実践を研究することで、どの教師にも育成可能なのか。教育学の研究は、そのような学習のメカニズムやその成果について、評価できるレベルにまで研究が進んでいるのか。不明な点を挙げればきりがない。……」

「とりわけ、すでに多忙を極める教員たちが、このような学習にどれだけ準備と、学習成果についてのフィードバックができるかについては、学校や教員の現状をとらえて、そこからどのような問題があるか、障害はどこにあるかを(帰納的に)に考えてみればすぐにわかるはずである。」

「それが失敗に終わっても、原因がわからないままである。1990年代以後に実施されてきた教育改革と同様に、実行を阻む原因も解明されないままだろう。」

 これくらいでいいだろう。
 「アクティブ・ラーニングが最後の砦だ!」と、教育の実践家たちはこぞってそれらの実践になだれ込んでいったが、苅谷先生のこれらの言葉にどう反応するのだろうか。

 そんなことを考えた夏であった。

●8月26日に誕生日を迎えました。
 朝早く娘から誕生祝いのメールが届き、そして知り合いの方から電話で誕生日お祝いの歌(電話口でハッピバースデーを歌ってくれる)をいただいた。
 うれしいことです。
 73歳になりました。
 いつのまにか、こんな歳になっています。

 毎日ほとんど家にいるだけの生活ですが、「暇だなあ!」という時間はありません。
 決まり切った生活ですが、毎日同じ生活を繰り返し続けています。
 飽きることはありません。
 「繰り返し」が人生の本質だと思っていますので、それにならっています。

 今日は、改めてカーネギーの「道を開ける」の第1章を読み直しました。

 「過去と未来を鉄の扉で閉ざせ。今日一日の区切りで生きよう。」

 一冊の小さい手帳に、朝今日やるべきことを書き出します。
 それを一つ一つやり終えて、消していく作業をやります。
 それが、私の一日です。

 最近読んだ本で、『ぜんぶすてれば』(DISCOVER)という中野善壽さんの本が良かったのです。
 中野さんは、元寺田倉庫代表取締役社長兼CEOという方。
 伊勢丹、鈴屋などを歴任した方で、現在75歳。
 伝説的な人らしく、出版の依頼が数多く、断り続けて今回は題名に惹かれて引き受けたという本。

 中野さんは、次のように書かれています。

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 …………
 ずいぶんせっかちですね、と笑われそうですが、僕はそう思わない。
 なぜって、明日死ぬかもしれないから。
 「明日がある」という希望は持つべきだけれど、
 本当に明日が来ると信じてはいけない。
 僕は75年以上を生きてきたから、
 「明日が来ること」が絶対でないのだとわかります。

 今日できることは、今日のうちやる。今すぐやる。
 「何から先にやればいいか」なんて考えなくていい。
 思いついた順に、なんでもすぐやれば、後悔することはありません。
 ★ ★ ★

 まさに、この通り。
 「今日できることは、今日のうちやる。今すぐやる。」
 
 私の信条にぴったり。
 「今日一日の区切りで生きよう」ということである。 

 今日も、両手ぶり体操をしながら、上空を飛ぶ飛行機を追い(横浜の空は、10分に1機は飛ぶんです。これが楽しい。)、また、紫蘇(勝手に生えてきた無農薬の紫蘇)を摘んで、紫蘇焼酎を造りました。これがおいしいのです。いろいろ試しましたが焼酎は、れんと(黒糖焼酎)が一番。
いや、いや、決して暇ではない。毎日何かやることがあるのです(笑)。 これから夕食はささやかな誕生会。今年は、女房と2人だけ。
 紫蘇焼酎を飲んで楽しみます。

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毎日、机を消毒することは止めましょう!

 日本中の学校で、感染対策として教室の机を毎日消毒するという作業を先生たちはやってきたはずです。
 これはものすごく負担になったと聞いています。
 毎日ですから。
 「働き方改革」だといいながら、先生たちに押し寄せる仕事の量ははんぱではないわけです。
 それも、こういうコロナ感染の状況だからというのが言い訳になっています。
 ★
 このことについて、国立病院機構仙台医療センター・ウィルスセンター長 西村秀一先生は、次のように言われている。

 https://digital.asahi.com/articles/DA3S14597410.html?_requesturl=articles%2FDA3S14597410.html&pn=2

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 多くの学校では毎日のように先生たちが机を消毒してきました。メディアや専門家が「接触感染」のリスクを強調してきたためでしょう。しかしウィルスは細菌と異なり、感染者の体外に排出されると時間が経てば死にます。新型コロナも、ある研究でプラスチック面で長く生きるとされていますが、データをよく見ると1時間で生きているウィルス数が10分の1程度に減っていました。
 仮に感染者が校内にいても、机に付着する数は極めて少なく、時間経過でウィルスが死ぬことも考えると、こうした負担を続けるほどの意味はありません。文部科学省も8月、過度な消毒は不要とマニュアルを改訂しました。私は手洗いも毎回せっけんで30秒も行う必要はなく、ウィルスは流水で十分落とせると考えています。
 このように学校で続いている感染対策の中には、科学的な根拠はあるように見えても、一つ一つ突き詰めると確固とした根拠のないものが多くあります。
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 「なあんだ、そんなことなのか!」と。
 こういう先生たちの負担は、即刻止めるべきです。

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